基礎研究からノーベル賞へ

2018年10月5日

今年も日本の研究者、本庶佑氏がノーベル医学生理学の部門で賞を受賞しました。おめでとうございます。心からお祝い申し上げます。

テレビのインタビューでお話しされている中で、基礎研究の大切さ、そしてそこに潜在する無限の可能性を力説されている姿に惹かれました。掻い摘んで言うと、今の日本はまさに真反対の状況にあり、目先の、成果がすぐに出るものが主流にあり、経済的援助もそちらに傾き、このままゆくと科学は尻窄みになりそうな危機感に満ちているのだと言い、実際に基礎的な研究は成果を求めた研究から見れば見えにくく、傍目には何をしているのかと訝しがられてしまう様なこともあるし、無駄なことをしていると見られることもしばしばだし、そんなことに時間を潰していないでとか、そんなことをして何になると言う見方をされることもある、肩身の狭いものだと言っていました。

お話を伺っていて、目先に振り回される科学研究の場、私自身も度々出会う日本的現象に悲しくなりました。科学の分野で基礎研究が肩身の狭い思いをしている限り科学に将来はないと断言していいと思います。なんの役にも立たないと言うと大げさですが、基礎研究は可能性の中にまずは閉じ込められています。そしてこの可能性というのは水面下にあって見えない未来形ですから、長い目で見れば未来に向かって研究していることになるのですが、いかんせん見えないので、周囲からの目が批判的になるのは仕方のないことなのかもしれません。しかしだからと言って役に立ちそうなもの、といった目先の研究に翻弄される科学ではお先真っ暗といっていいと思います。

岡倉天心は東京美術学校創設にあたり(今日の芸術大学美学部)学長として当時アメリカから招聘されます。癖の強い彼は当時の文部科学省と折り合いが合わず間も無く辞めてしまいますが、在職中に学生たちの絵を見て「売れそうな絵なんか描かなくてもいい」と叱咤したと伝えられています。

学問の世界と芸術の世界との違いこそあれ、何か共通したものを感じます。売れそうな絵と目先の成果を求めての研究、基本的には同じ穴のムジナで、全く同じ落とし穴に落ちた様です。

 

可能性の中で黙々と努力し続ける姿はひたむきで美しいです。話は少しずれますが英語の不定詞という言い回しのことを考えました。

英語を勉強されたかたはto+動詞で作られるInfiniitiv、不定詞のことを知っています。この単純な形がどの様な意味に使われているのかはひとえに文脈によります。文脈を汲み取るセンスを鍛える直接の方法はありませんから、回り道をすることになります。

不定詞は動詞の目的語として使われることが多いですが、主語になることもあり、さらに名詞にもなり副詞にもなり形容詞にもなりと形はいともシンプルなのに用途は変幻自在で、文法書と辞書からでは意味が読み取れず英語の初心者は難儀します。文章を読み取るセンスを磨くことからしか正確に不定詞の意味を汲み取れる様にはないのですが、これは地道な努力、無駄な回り道が外国語習得の本道です。

不定詞は可能性をいくつも持っているため文脈が汲み取れないとパニックに陥ってしまいます。可能性と言えば聞こえはいいですが、訳が分からず、どうにでも取れるという迷路です。文脈を読み取るセンスはたゆまない努力の末向こうからやって来るものなのです。

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