床擦れ、褥瘡の回復

2018年10月4日

褥瘡(じょくそう)というのが正式名称ですが、昔は床ずれと言っていました。

父が亡くなる前のことです。入退院を繰り返していた時、病院での栄養摂取は点滴でした。その時の悩みは必ず軽く褥瘡になって退院して来たことでした。しかし家に戻りしばらくすると褥瘡は消えていました。

病院側が胃瘻という話を持ち出した時、母が「もう結構ですから引き取ります」と断固と言い退院させ、病院の方とはそれっきりになり、在宅専用の看護師さんが週に二回父を見てくださることになりました。退院の際には「余命は二週間くらいでしょう」と言い渡されての退院でした。

父の褥瘡の方ですが、毎回退院後二週間ほどすると良くなってゆくのを見ながら、在宅の看護師さんが「口から食べ物を入れ、口の中で噛んで飲み込むことが褥瘡を治したのですよ」、とおっしゃるのです。病院の点滴は栄養としては十分ですが、それは生命活動とは全く別のものと言えるのです。生命と食事の関わりを見ると、栄養価だけからは語れないものが、噛んで飲み、食道を通り、胃袋で消化されそれが腸から吸収されるという人間の体全体に張り巡らされたシステムにあるということでした。気付かずにいますがそのシステムは偉大なもので、それが退院後の父を健康にしていることを何度も繰り返しお話ししてくださいました。

口にするものとは言ってもほとんど流動食に近いものでしたが、人の手を借りながら、主に母でしたが、スプーンで口に入れてもらって食べていました。それでも口に入ったものはどんなに柔らかいものでも必ず噛んでから飲み込み、一口食べると笑顔で「美味しいね」と言っていた姿を懐かしく思い出します。二週間の余命宣告を受けての退院でしたが、退院後8ヶ月を自宅で過ごし他界しました。

 

点滴による人工的な栄養補給と口に入れる食事との違いをイメージして見ました。そして、最近気になっている人工頭脳と人間の思考の違いをオーバーラッブさせたのです。人工頭脳はご存知の様に、様々なデーターの計算的処理、統計的データーなどに関しては今すでに人間を超えています。しかも最近はコンピューターの働く領域が広かっていて、目新しいところでは小説も書く様になっているらしく、予選審査くらいは通過する内容のものだと聞きました。

アメリカの映画のメッカハリウッドでもコンピュータは大活躍で、一年間に何万と送られてくる脚本をコンピューターにかけ選り分けます。基準は驚くほどパターン化されています。映画がヒットするために必要な点がチェックされ、それが満たされていないものはボツになり、残ったものが次の審査の対象になり、スクリーンに近づいて行くのです。もし第一審査からの全てを人間のスタッフがするとなると大変な労力になり、しかもずっと効率の悪いものになってしまいます。そこのところは人間の労働力をはるかにしのいでいるダンプやブルドーザーと比較するのに似ていて驚くものではありません。

 

よく人工頭脳は人間の知的能力を凌駕して、そのうち人間を支配する様になると恐怖心を煽り立てる様なことを言う人がいます。しかし今一度人間の知能、思考の複雑さを見直して見てはどうでしょうか。機能的な処理能力は人間を超えてゆくでしょう。新幹線は人間の誰よりも早く走ります。その点に関しては人間をはるかに凌駕しています。しかしそれは父が受けた病院での栄養満点の点滴に等しいのです。生命と食事ということに関して、栄養学的に語れるのは限られています。人間は栄養を摂取するだけでなく、摂取した食べ物を体全てに張り巡らされたシステムで消化し摂取するのです。

人間の思考力を支えているものに直感があることを忘れると、思考力が整理のための道具になってしまいます。そしてそれはコンピュータに任せていいことなのです。

直感とはと聞かれれば、私は生命力から生まれるものとまず言いたいのです。ということは生命力を持ち合わせないコンピューターや人工頭脳に直感はないのです。

直感とはもっと砕いて言えば一目惚れの様なものかも知れません。ある人に出会ったり、ある物に出会ったりした時に向こうから飛び込んでくるのです。そしてそれをよしと言えるのです。

人間には感動があります。これも直感に似ていて向こうからやって来ます。

私たちが力を抜いてぼんやりしている時などに不意打ちを食らう様に訪れるもので私たちは簡単に打ちのめされてしまうのです。しかしそこからしか新しいものは生まれないのです。この新しさは、コンピューターや人工頭脳が、過去を整理して予測する未来とは違った、未来からやってくるのです。歴史に名を残す数多の天才たちはこうして人間に未来をもたらしたのです。

 

人工頭脳的文章洞察

2018年9月30日

文章というのはどんなに短くてもそこには伝えたいこと以外に、その人の癖、性格、人となりが伺がえるものです。

人工頭脳も書かれた文章から書き手の判断ができるところまで来ました。性格、人格ではなくパターンを判断するのです。

しかし話を聞いていると今はまだパターンという言い方に止まっていますが、近い将来には文章の書き手をイメージするところまで行きそうな気がして来ます。

 

文章を読む時、普通は内容を汲み取り、そして解釈して、この文章は何が言いたいのかを判断します。書かれたものの内容とか意味を探すわけです。そしていい文章だとか読みにくい文章だとコメントします。ところが人工頭脳は違う方法をとります。どんなに良いことが書かれていても内容の方にはほとんど見向きもしません。そこのところがミソです。判断の材料に使われるのはまず単語です。他の単語とどの様な関連で使われるのか、またどういう単語を頻繁に使うかなどを見ます。接続詞への関心度も高いということです。それから助詞の使い方もしっかりチェクします。単語の並び、語順も重要です。

ということは文章の組み立てに興味があるということです。私たちが文章を読む際に一番気にしないところが人工頭脳にとっては大事なものということなのです。あるいは文章を書く際に癖で書いてしまうところと言えるかもしれません。

 

ある本を読んで感想文を書くというのが小中高を通してありました。私は何を書いて良いのかわからなかったので、とても嫌いで苦痛でした。感想文は内容について書くのが普通でした。ところが、人工頭脳は多分私と一緒で感想文はかけないと思います。人工頭脳は文章をまるで文法の時間の時以上に解体してしまい、そこに見られる癖、無意識に使ってしまう言葉などを整理するのです。文章の内容から書き手の真意を読み取ろうとはしないのです。単語どうしをどの様に繋ぐのか、どういう接続詞でつなぎ、何の助詞でまとめるのかを見て真意を読み取ろうとするのです。真意というのは言い過ぎかもしれません。ですから現時点ではパターンと言っているのでしょう。国語の時間の感想文でそんなことをして書いて出したら先生に呼びだされてたっぷり絞られていたと思います。

この一見特殊に見える方法に、実は今、色々な方面から関心が高まっているのです。かつては、採用にあたり履歴書にこだわった企業も、将来的にはこの人工頭脳の判断方法を導入しようと考えている向きが伺えます。履歴書には本当のことがあまり記述されていないのかもしれません。ということはそもそもあてにならないものだったのかもしれません。履歴書を批判的に見直してみると、確かにそこに書かれていることからはその人の人柄や性格は読み取ることは難しいです。「私は優しい性格で周りから好かれます」なんて書く人はいません。仮に書かれていたとしても読む方は「この人はおかしい」と思うはずで、結局履歴書からわかる確かなことはその人の生年月日と最終学歴、今まで務めた会社名などで、それ以上のものはわからないのです。

採用試験を文章を書くものにして、その文章からその人の能力、性格、人となりが伺えれば、丸ばつ式のテストや、答案を書く試験よりははるかに適切な人材を採用できるはずです。そしてそこに人工頭脳の方法が使われる様になるのかもしれません。

考えや意見というのは他の人の意見だったりするもので、嘘というほどではないにしても、その人の深いところから出て来たものでないこともあるのです。ですから要注意なのです。人工頭脳は私たちの古めかしい見方に対して、「文章にしろ人間にしろ真意は意味から見えてくるものではなくで、無意識や癖の様なものを通してイメージとして見えてくるのだ」と攻撃を仕掛けている様に感じられるのです。とても挑発的ですが、まだその背後にはプログラムを組む人間が控えて居ます。しかし人工頭脳の物事を整理する力がこの様に使われ出したことは、新しい時代の幕開けの様な気がしてならないのです。

 

砂時計

2018年9月28日

小学生の時、なんの時間だったか、先生が机の上に得体の知れない奇妙なものを置いて、「これで時間を測ります」と言って上下をひっくり返したのです。みんながキョトンとしていたのだけは鮮明に覚えています。

これが砂時計との出会いでした。「上の砂がカラになったら三分が経ったということです」と先生は言ったと思います。半信半疑で固唾を飲んで見入っていました。その後それは砂時計というもので、上のガラスと下のガラスの間にくびれた狭い通り道があり、そこを一粒か二粒の砂が通るだけの簡単な仕組なのに、案外正確に時間を測れるものだと知りました。クラスメイトと面白半分に教室の時計で砂時計の三分がどのくらい正確かを測ったものです。

砂時計は思いの外正確でした。

陸上競技や競泳のタイムを測るのには使えませんが、日常生活の時間の計測には十分活用できるものです。実際に台所で大活躍です。

時間を測るとは言っても時を知らせるために刻んでいる時計とは基本的なところが違います。一定の時間の長さを測るためのものです。しかも測る時間の長さは砂時計によって異なりますが限られている上、始まりは任意ですからいつ始めてもよく、とそんなところに遊び心を感じさせるものです。

先日、本当に久しぶりに「よくできたものだ」と感心しながら砂時計を眺めていました。そしていつもの癖であれこれと空想しながら遊んでいました。上にある砂つぶは測られるためのもの、下に落ちた砂つぶは測られたもの、測るための砂も測られた砂も同じ砂なのにと眺めながら(10回以上ひっくり返しをやったので最低でも30分は見ていたことになります)、上と下とでは何かが違うと自問していました。行き着いたところは、私自身の人生も砂時計なのだろうかということでした。上のガラスの中にはこれからの時間が詰まっているので未来で、下は今までにしてきたことの総体に見えてきたのです。ここまではすんなりいったのですが、くびれには少し手こずりました。

人生でくびれにあたるものを探すと、それは他でもない「今」です。つまり砂時計をヒントにして考えてみると、私たちが時間と呼んでいるのは今を通り過ぎ時に生まれる二つの姿、未来と過去で、それは今を境に分られるものなのだと、何かを発見した様に興奮しました。

普通時間の流れは、過去があって未来があってその間に現在という「今」が挟まれているという風に考えがちですが、くびれを「今」に例えられたことで、「今」の重みを再確認し、砂時計がとても近いものに感じられる様になりました。

砂時計が人生そのものだとすると、人生の長さはあらかじめ決められていることになってしまいます。砂時計は砂の量とくびれの幅が全てです。3分計の砂時計は3分を測るための量の砂が入っています。ということは人生もあらかじめ長さを決めておかなければならないということになります。砂時計はありがたいことに「だいたい」ですから、85年10ケ月23日12時間35分26秒00分の人生ときっかりではなく、砂時計の人生は「だいたい80歳分」でいいのかも知れませんが、それでも決められているには変わりありません。「人生は宿命です」と言う宿命論の前に立たされている様な気分になりました。

生まれた時には寿命や歩む人生は決まっているのかも知れません。私はそれも有りでいいと考える方ですが、そんなことはないと言う人もいます。結論の出ない水掛け論です。ただ人生という言い方に注意を向けると、著名人が人生について述べたことを引用していることが多いものです。また「人生というものは・・」とわかった様な顔をして言うとき、人生は形としての外枠の様なものです。例えば死ぬ時に自分の人生に対して「いい人生だった」と達観できるのは、今人生が終わろうとしている瞬間に、自らの一生を枠に入れられるからです。

人生は宿命か、それともそうではないのか。それは結論が出ませんが、実際に毎日を切り盛りしながら生きている時にはそうした達観は遠く、「今」の中に埋もれ、「今」を懸命に生きているだけで、外枠の「人生」を考える余裕などありません。

そんなことを考えながら、くびれを通っている一粒一粒の砂を見ていると、その姿がなんだかとても愛おしいものに思えて仕方がありませんでした。

砂時計で一番興味深いのはあのくびれのところです。生きている人間も砂時計も今を刻み続けているところはそっくりです。