2018年9月26日
音楽とどの様に付き合うかは人それぞれはもちろん、時代によっても、地域によっても違っています。
音楽と私たちの間には実に素直な関係が作られています。驚くほど純粋なもので、そこには偽りがないのです。つまり音楽の好みを聞けばその人の人となりがうかがえると言っても過言ではないように思うのです。
他人がどんな音楽を好んで聞くのか、そこにはその人の真実があって、外から口を挟む余地はありません。ですからここでは自分の音楽との付き合いについて語りたいと思います。
よくお気に入りのメロディーを鼻歌のように口ずさみます。流行歌、ポップ、たまには演歌、そしてシューベルトと出てくるメロディーはその時の雰囲気でまちまちですが、口ずさんでいるときは幸せです。人通りの多い通りでも構わず歌っていると(小さな声でです)、子どもが小さいときは嫌がられたものです。歌っているときはただ黙々と歩いている時よりも足取りが軽いのは言うまでもありません。身も心も何倍も軽くなっている自分がいます。ただ山登りの時には呼吸に余裕がなく流石に歌うことはありません。
音楽が聞きたくなる時はどうかというとこれまたいろいろで、口さみしいときにお煎餅をぼりぼりするように聞くこともあれば、こってりとした料理が食べたくなるように聞くこともあります。そのときに聞きたい音楽がどういう音楽かは案外わかっているもので、我ながら感心してしまいます。そして選んだ音楽を聞いているとやはり軽くなっている自分がいます。一人で車を運転しているときにはロックとかポップの方が気を紛らわしてくれます。
なぜ音楽にはそんな力があるのでしょう。
とっさに思い当たったのはすでに言ってしまいましたが「軽み」です。音楽には何かを軽くする力があるのです。それは考えて整理したというよりも、経験から言っていて、歌を口ずさんでいる時も音楽を聞いている時も、両方とも身も心も軽くなるような、「軽み」を体感するのです。それはとてもありがたい体験です。
音楽は形がなく、しかも見えない、手で触れないのです。物に囲まれている毎日の生活の中で、唯一物でないモノです。音楽は楽器という物を通して生まれるモノですが、音そのものは物ではなく、物質化することが無いモノです。音楽的な音というのは、物質化する前のところでイメージを吹き込まれた音で、そこから音楽の音にはイメージが宿っていて、それが軽みを導き出しているのではないか、そう思うのです。炸裂するような大きな音にしろ、極々小さい音にしろ音が物でないという事に変わりはないのですが、違うところは工事現場の音からは軽みを感じないという事です。軽みは音楽的な音、つまりイメージを宿した音楽からしか得られないものだということです。
音楽なら、どんな音楽であれ、それを聞く人から軽みとして体験されているのです。しかしみんなが軽みという言い方はしないかもしれません。最近はあまり聞きませんが、かつては軽音楽という呼び方をされた音楽がありました。しかしそれは、ここで言っている「軽み」のことではなく、気軽に聞ける音楽という意味で使われたものでした。ただ不思議なのは、重音楽という反対の呼び方はついぞ現れなかったということです。音楽という軽みを旨とした世界には不向きだったからなのでしょう。ところが、あまのじゃく的な言い方をすると、クラシック音楽というのはどちらかというとこの「重音楽」と言いたくなるのです。気楽に聞く軽音楽ではなく、気難しく聞く音楽だからです。
余談になりますが、十九世紀には教会でハイドン、モーツァルトのミサ曲は演奏されることが禁じられたという経緯があります。のびのびとした十八世紀を生きたハイドン、モーツァルトの音楽は明るく気難しいところが少ないので、真面目で、深刻になった十九世紀には不向きだったのです。クラシック音楽が重音楽の傾向を持つようになったのはこの頃からです。
私は案外的を得た言い方だと思うのですがクラシック音楽を重音楽と呼ぶのに抵抗を感じている人もいると思います。私は深く落ち込んだところで、気難しい聞き方をしても、聞き手に軽みを感じさせるほどの力がクラシック音楽にはあるのだと言いたいのです。そのところをはっきりさせればクラシック音楽イコール重音楽という図式は納得していただけるのではないのでしょうか。
2018年9月22日
人に何かを尋ねられた時、どう答えようかともがくことがあります。百科事典のような答えは避けたいともがくのです。
知っていることを並べ立てるようではなんだ物足りないので、工夫したいためです。
返答することを「答える」と「応える」とに分けてみようと思います。両方は同じだと言ってしまえば同じでしょうが、私には違うように映ります。答えるときは正確さで答えていますが、応えるというのは正確さだけでなく相手の気持ちなどを考慮しています。答えるのはそのうち人工頭脳の方が人の何倍ものスピードやるようになるでしょう。いやすでに人工頭脳の方が正確さにおいても優っている時代に生きています。しかし応える方はしばらくは人工頭脳に追い越される心配はありません。それどころかいつか人工知能が優位に立つことはないでしょう。
返答するところから応えるところまでの道のりは長いです。一人一人の味、人柄、人格が返答から応えるところまでくると生き生きと感じられます。対話、会話が豊かなものになるために話題の豊富さは欠かせませんが、それ以上に応えようとする姿勢が大事です。
応えるために必要なのは相手の理解です。相手と自分の間に信頼関係が作られるので応える力は文化の健全さを支える大切なものです。
先日環境問題で社会運動をしている団体との出会いがありました。思想的に多くの人を惹きつけ、そこから団体が生まれ、社会運動にまで成長したわけですが、そこでいろいろな人の話を聞いているとだんだん滅入ってきて、息苦しくなり長居をせずに帰ってきてしまいました。原因はそこにいた人たちの答え方です。退屈で応えになっていなかったからです。ある特定の思想のもとに集まっているとはいえ、その人なりの答え方の工夫をするかしないかは、どんな状況でも大切です。みんなが同じに「コタエル」ようになっては、一番基本的な一人一人が独立しているということが無視されてしまいます。私にはとても危険なものと映るのです。思想内容が危険というのではなく、一人一人がその人の人生にふさわしい問いを発し、相手にふさわしい応えが見つけられないようでは、健全なものを感じないのです。
今日のようにメディア、ネットが浸透してくると、国にしろ社会運動にしろ、あるいは手っ取り早いところでは宗教とか言った固定した集団とは別に、ある考え方に洗脳された?見えない集団というのが生まれてきます。思想が洗脳されるのではなく、考え方が型にはめられてしまい、見えないエネルギーが生まれそこに脅威を感じるのです。洗脳というのはかつては権力者のものでしたが、今日ではメディア、ネットがかつての権力者のような影響力を持ってしまいました。受け取る側は知らず識らずのうちに(ここが怖いのですが)情報はもちろん、考え方、答え方に染められてしまいます。思想の押し付けは抵抗のしようがありますが、考え方、答え方は意識していないもので、無意識に押し付けられてしまうため、本人は洗脳されている事を知らずにいるという空恐ろしい状況が生まれます。
答え方に工夫を凝らすというのは個人の精神の健全さを保つために、社会の健全さを保つために必要なものだと思います。
私はしばしば、誰もが知っているような簡単なことを大真面目に質問することがあります。「お前そんなことも知らないのか」と軽蔑した視線を感じることもありますが、たまに聞いてよかったと思うような名答?に出会うこともあります。知っていることを自慢げに振りかざしている人は「知っていることに振り回される」のでお座なりの答えでそこには余裕がありません。たとえ正しく答えてもらっても退屈で息苦しいものです。
応えになっている人には余裕があります。この余裕、ありがたいものです。
ところでこの余裕ですが、どこから生まれるのでしょうか。
答えるから応えるに至る道程は成長の過程です。答えから応えの道のりは実に厳しいのですが、応えられるようになった時に見られる余裕は精神的に成長した証です。その余裕の中から信頼関係が生まれるのです。
そしてその成長を促しているのは何かとも考えるのですが、私はユーモアではないかと思っています。
2018年9月12日
母国語の持つ意味。これは何度でも繰り返し強調したいものです。
ふるさとの山に向かいて言うことなし、ふるさとの山は有り難きかな、と言ったところです。山を母国語としてみると母国語の大切さありがたさがよくわかります。
今日はその母国語を山ではなく原生林に譬えて見ます。
原生林と呼ばれているものを一度だけですが体験したことがあります。とは言ってもほんの入り口のところまででしたが、そこですら文明化した自然、私たちを取り巻いている整備されたお行儀のいい自然とは別もので、その雰囲気の中にいると大地が歌う声が木を通して聞こえてくるのです。声とは言ってももちろん聞こえる声ではなく声のエネルギーで、木の幹を上に向かう力と同じ力が立っている私の体の中を貫き通り過ぎるのです。声というのは「人間が立つ力の音声化したもの」とは私自身が何度も繰り返して来たことですが、原生林にそのことを証明してもらった感じでした。
人間の心は何に例えられるのだろうというのは思春期に入った頃から考えていたものでした。心というのはコロコロと動いている流動無形なものという当時の印象から、永遠に動いている海の姿がまさに心でした。また海は産むの名詞化したものだろうから、心に例えるに相応わしいものだと勝手な理屈を後からつけたものでした。
原生林での声の体験は衝撃的でした。その声が原生林の中を響き渡り言葉をしゃべっているのです。海を心になぞらえていた時は沈黙した心で、心そのものの様子が海そのものに思えたのですが、原生林では足を踏み入れしばらくして聞こえて来た声が言葉となってゆくところが心との接点でした。原生林の中から母国語に満たされた心が現れて来たのです。言葉が、特に母国語が心を満たしている様子がしきりに思い出されたのです。
原生林の中で目にした混沌とした植物の育ち方はまさに自然の原型で、同じ自然とは言っても、整備された自然しか知らない現代人にとって、原生林は美しいものではなく、恐ろしいものかもしれません。そこには文明のかけらすらなく、太古の昔からの、時間と空間を超えた息遣いがあります。道というのは他でもない文明の産物ですからそんなものはありません。木が倒れっぱなしで苔だらけの世界です。迷路などをはるかに超えた異次元です。どこをどう歩こうが、そこを道と呼びたければ道と呼んでもいいのです。まるで母国語で独り言でも言っているかの様でした。混沌としていてもちゃんと整理がついているのが母国語です。母国語同士なら、でたらめに喋ってもちゃんと通じる事があるのです。文法はしっちゃかめっちゃか、語彙の意味もなんとなくという程度でしっかり通じてしまうのが母国語同士での会話です。ここに母国語の偉大さがあります。
以前のブログで、ロボットには母国語がないということを指摘しました。人間である所以は言葉です。幾つの言葉ができるかではなく、母国語があるかないかなのです。ロボットの言葉はまさに文明によって整理された自然の様な言葉だと言っていいと思います。いくつもの言葉が理解でき喋れても母国語がないのです。