答え方の工夫、答えるから応えるへ

2018年9月22日

人に何かを尋ねられた時、どう答えようかともがくことがあります。百科事典のような答えは避けたいともがくのです。

知っていることを並べ立てるようではなんだ物足りないので、工夫したいためです。

 

返答することを「答える」と「応える」とに分けてみようと思います。両方は同じだと言ってしまえば同じでしょうが、私には違うように映ります。答えるときは正確さで答えていますが、応えるというのは正確さだけでなく相手の気持ちなどを考慮しています。答えるのはそのうち人工頭脳の方が人の何倍ものスピードやるようになるでしょう。いやすでに人工頭脳の方が正確さにおいても優っている時代に生きています。しかし応える方はしばらくは人工頭脳に追い越される心配はありません。それどころかいつか人工知能が優位に立つことはないでしょう。

返答するところから応えるところまでの道のりは長いです。一人一人の味、人柄、人格が返答から応えるところまでくると生き生きと感じられます。対話、会話が豊かなものになるために話題の豊富さは欠かせませんが、それ以上に応えようとする姿勢が大事です。

応えるために必要なのは相手の理解です。相手と自分の間に信頼関係が作られるので応える力は文化の健全さを支える大切なものです。

 

先日環境問題で社会運動をしている団体との出会いがありました。思想的に多くの人を惹きつけ、そこから団体が生まれ、社会運動にまで成長したわけですが、そこでいろいろな人の話を聞いているとだんだん滅入ってきて、息苦しくなり長居をせずに帰ってきてしまいました。原因はそこにいた人たちの答え方です。退屈で応えになっていなかったからです。ある特定の思想のもとに集まっているとはいえ、その人なりの答え方の工夫をするかしないかは、どんな状況でも大切です。みんなが同じに「コタエル」ようになっては、一番基本的な一人一人が独立しているということが無視されてしまいます。私にはとても危険なものと映るのです。思想内容が危険というのではなく、一人一人がその人の人生にふさわしい問いを発し、相手にふさわしい応えが見つけられないようでは、健全なものを感じないのです。

今日のようにメディア、ネットが浸透してくると、国にしろ社会運動にしろ、あるいは手っ取り早いところでは宗教とか言った固定した集団とは別に、ある考え方に洗脳された?見えない集団というのが生まれてきます。思想が洗脳されるのではなく、考え方が型にはめられてしまい、見えないエネルギーが生まれそこに脅威を感じるのです。洗脳というのはかつては権力者のものでしたが、今日ではメディア、ネットがかつての権力者のような影響力を持ってしまいました。受け取る側は知らず識らずのうちに(ここが怖いのですが)情報はもちろん、考え方、答え方に染められてしまいます。思想の押し付けは抵抗のしようがありますが、考え方、答え方は意識していないもので、無意識に押し付けられてしまうため、本人は洗脳されている事を知らずにいるという空恐ろしい状況が生まれます。

答え方に工夫を凝らすというのは個人の精神の健全さを保つために、社会の健全さを保つために必要なものだと思います。

 

 

私はしばしば、誰もが知っているような簡単なことを大真面目に質問することがあります。「お前そんなことも知らないのか」と軽蔑した視線を感じることもありますが、たまに聞いてよかったと思うような名答?に出会うこともあります。知っていることを自慢げに振りかざしている人は「知っていることに振り回される」のでお座なりの答えでそこには余裕がありません。たとえ正しく答えてもらっても退屈で息苦しいものです。

応えになっている人には余裕があります。この余裕、ありがたいものです。

ところでこの余裕ですが、どこから生まれるのでしょうか。

答えるから応えるに至る道程は成長の過程です。答えから応えの道のりは実に厳しいのですが、応えられるようになった時に見られる余裕は精神的に成長した証です。その余裕の中から信頼関係が生まれるのです。

そしてその成長を促しているのは何かとも考えるのですが、私はユーモアではないかと思っています。

 

 

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