2018年9月6日
人工知能が近々人間を凌駕すると考えている人達がいて、その日付を2045年ごろと定めていますが、私は人工知能も基本的には道具の領域は出ないと考えています。
人間は石器時代から今日に至るまで道具を考案し続けてきました。グーテンベルクの大量印刷機の発明で、手で一つづつ書き写していたものが、いっぺんに何百、何千と大量に印刷されて世に出回りましたし、産業革命の時に蒸気の利用で今までの道具のイメージが飛躍的にアップし、ある意味で頂点に達し人間の労働力をはるかな凌駕しました。人間どころか馬の労働力さえ超えたのです。100馬力なんて今では普通の自動車にも搭載されているエンジンです。
人工知能は道具は道具ですが今までの道具とは違い労働力ではく知的能力を代替わりしてくれるものです。ホモサピエンスならではの道具と言えそうです。人間を人間たらしめている考える能力を代用する道具です。現在一番活躍しているところは情報処理と測定の世界ではないかと思います。囲碁もチェスもコンピューターの方が強くなったのは、膨大な情報量とその優れた処理能力による結果ですから当然の結果が出たに過ぎないと言えるのです。またミクロンの単位といった人間の測定能力では測りきれない微妙なものを正確に測定して、それを元に様々な精密機械が生まれています。
しかしそれがそのために作られた道具であるということをわきまえていれば驚くには値しないのです。これからも性能はどんどん向上して行く筈です。
今までは翻訳が惨めだったコンピューターでしたが、これからは言葉の意味だけでなくイメージを処理する能力に加えディープラーニングという自分で自分に問題を科せるせる能力を備えたことでより正確な翻訳が期待できるでしょう。事実ヨーロッパの言語の間では読むに値する翻訳になってきていますから、優れた通訳者として、政治や経済の世界で活躍する日も近いのではないかと思います。名医、名弁護士は当然のこと、科目によっては学校の先生もコンピューターに太刀打ちできなくなる日が来るかもしれません。産業革命のような生産力の変化ではない、私たち自身がまだよくわかっていない知的分野の変化です。だから不安が伴う道具なのでしょう。
知的分野の中の情報処理と測定の分野をまずはコンピューターにゆずったのです。
人工知能と呼ぶように知の代用者としてエンジンが人間の力を超えたように人間の知能を超えるわけですが、コンピューターによる翻訳が、誤訳もある人間の翻訳より正確だとしても、名訳がコンピューターから生まれるかどうかはわかりません。今までも文献学的に正確な翻訳をよしとするか、それとも砕けた意訳の方をよしとするかは別れていました。名訳は正確な訳とは別の感受性によるもので、主観的なものによっているからです。つまりコンピューターにとって主観とは何なのかという問題です。
書の世界でも同様に、測定能力が優れたものになって王羲之や三筆、三蹟、或いは良寛さんの書など、優れた書家の筆跡を正確に測定し統計処理したからと言ってコンビューターが素晴らしい書を書くようになるとは想像できません。却って情報が多過ぎて平均的なつまらない字を書きそうな気がします。囲碁やチェスの場合は情報処理能力がものをいいますが、優れた書の筆跡は、統計や測定の正確さから生まれるものでなく、一人の人間の総合された人となりから生まれ、勝ち負けとは縁のないものです。主観的なものだからです。書の相手は書です。書に勝つとか負けるとかの発想そのものが不自然で、どういう意味があるのか首をひねってしまいます。同じように歴史に残された楽譜を全てインプットしたからと言って名曲が聞けるようにはなりませんし、ギリシャ時代からの全ての哲学書をインプットしても素晴らしい思想が生まれる事など期待できないのです。芸術を含め精神の世界は相手を負かすのではなく、勝ったり負けたりする相手がいないのです。主観と主観が戦っても蓼食う虫も好き好きということですから永遠に引き分けです。
コンピューターに自分が書きたい字は書けるのでしょうか。
さてここでモラルと人工知能を手繰り寄せて見たいのです。
モラルは主観に依存していますから正しいものを見つけ出します。
でも人工知能はいつも正解です。正解に向かって邁進しているのです。
そんな奴が中学の時にクラスにいましたが、一度も友達だと思ったことはありませんでした。
2018年9月3日
18世紀に作られた楽器を使った音楽会に行って来ました。ヴァイオリン属の楽器だけでなく、トランペット、ホルン、フルートの管楽器も当時のものでした。
古い楽器で演奏する人たちの音楽会には幾度も足を運んだものです。その時の印象は、古い楽器であることや当時の音楽スタイルに神経を使いすぎて、音楽の楽しみよりも学問的なものが先行していて、楽しい思い出がなかったのですが、今回の演奏会は、のびのびとしていて、バッハのロ短調のミサでしたが、聴き終わった後、バッハには距離を置いている私でも「よかった、音楽会以上のものだった」と充実した気分でした。演奏していたのはアムステルダム・バロックオーケストラと言う団体で、指揮者はトン・コープマン。奇遇なことにわたしが聞いた次の日に日本に演奏旅行に出かけたと後日の新聞の批評で読みました。
ヴァイオリン属の楽器は基本的なものは18世紀には完成していましたから現代のヴァイオリンとほとんど変わらないのですが、弦がスチールではなく牛の腸で作られたガット弦ですから、きらびやかな音と言うよりも、いささかハスキーなしっとりした渋みのある音を出します。それだけでもほんのりとした気分に包まれます。弓の違いも大きいのですが、それ以上に弓の握り方が指先だけでなく腕からの流れを反映していると言うことで、ヴァイオリンを体全体で弾いているように見えました。
金管楽器はヴァイオリン属の楽器と比べると大きく違います。トランペットにはピストンが無いだけでなく穴もなく、簡単に言えばマウスピースが付いているだけの金属製の管(くだ)と言う体裁のものです。ということは音程を取る頼みの綱はマウスピースに当たる唇の微妙な動きと呼吸の調節のみですから、気の遠くなるような話です。ホルンも同様でピストン、音程を取る穴がないのです。今のホルンも渦を巻いていますが、昔のホルンは六回ほど渦を巻いていて、大きさも今のコンパクトなホルンに比べると二倍あるいは三倍くらいある堂々としたものでした。そもそもホルンは演奏の難しい楽器と言われていますが、マウスピースと管だけのホルンの演奏は想像を絶するほど難しいらしく、そのためにとくべな養成期間があり、吹ける人の数も少ないと言うことです。
ということは今の管楽器というのは、穴が開けられたり、そこにピストンが付けられたりと改良されたものなのです。それを進歩というのかどうかわかりません。ただ言えるのは演奏を容易にするためだったということです。どこか便利さを追求する精神に通じるものを感じます。
フルートは穴は開いていましたが今のように穴の上にキーが乗って機械的に穴を塞ぐのではなく、篠笛と同じに指の感覚で塞ぎます。そのため同じ人が同じ音程を演奏しても毎回微妙な違いが生まれるのです。トラベルソと呼ばれているこのフルートの音はロウソクの炎が揺らぐような震えのある音でした。それに比べると今のフルートは羽ばたくようなきらびやかな音でしかもピタッと音が決まり音程も正確に吹けます。また早い演奏速度をこなせるように改良され、といいとこだらけですが、トラベルソの不便さから生まれる音に、トランペット、ホルンも同じですが、肌に馴染む暖かな感触があり懐かしさすら感じるのです。
というわけで、音楽を聴きながら、音楽を作り出すために肉体が不器用な楽器と向かい合い繊細な仕事している現場に立ち会っていたのです。音楽をこんなに生々しく聞いたのは久しぶりのことでした。
音楽は身近なものなんだと改めて感じた次第です。
2018年9月1日
私の母の自慢は、92歳で全部自分の歯を持っていて、しかもほとんど虫歯がないということです。かなり硬いお煎餅でもボリボリと食べるので、まだお若いのに歯が丈夫でない主治医が往診のたびにしきりに羨ましがっています。
病気らしい病気もほとんどないのですが、たまたま検査入院をしたりすると、就寝前に看護婦さんがきて「仲さん、これに入れ歯を入れてくださいね」と小さなプラスチックの箱を置いてゆくのですが、母には入れる入れ歯がありません。次の朝看護婦さんが入れ歯のお掃除のためにプラスチックを回収にくるのですが、中が空っぽなので「仲さん、入れ歯をしたまま寝たのね、ダメでしょう」と怒られるのですが、「私入れ歯を買うお金がないから自分の歯で生きています」と真顔で答えるのも、どうやら母の楽しみのようです。
昔からお煎餅が好きで、お煎餅を食べて90年という経歴はなかなか耳にする話ではないので、お煎餅の業界から表彰されてもいいのではないかと思ったりします。
その母にとって一つ悲しいことがあります。しかもそれが大好きなお煎餅のことでとなので相当の悲しみではないかと想像します。
その悲しみというのは、「最近のお煎餅美味しくなくてね」という、これまたあまり耳にしないことなのです。
母の自慢話を人にするときは決まって硬い煎餅を年甲斐もなくボリボリ食べることを話題にします。もちろん他にも自慢したい事はいくつもあるのですが、話題として面白いのでこの話をします。「それはすごいですね」と褒められるとまるで我が事のように嬉しくなってきます。息子バカというのでしょうか。そのことを覚えていてくださった方が次に会ったときに、母へのお土産にとお煎餅をくださったりして、それを持ち帰って「お母さん、またお煎餅をいただいたよ」と母に渡します。「ありがたいわね」とまずは嬉しそうにおもむろに包みを解いて「さてさて今日のお煎餅はどうかしらね」と言いながら早速試し食いにかかるのですが、いく種類かの詰め合わせになっている時は箱の中から決まって一番固そうなのを選んで食べるのはいつものことです。
「どう、今日のは」と聞くと、ボリボリ食べていて音がうるさくて聞こえないのでしょう返事がありません。確かに立派な音を立てて食べています。しばらくしてもう一度聞くと「なかなかよ、お礼を言っておいてね」と満足そうな笑みを浮かべるのですが、これまたいつものことで「でもね」ときます。「昔のお煎餅の味はしないのよね」と続くのです。
「昔のお煎餅ってそんなに美味しかったの」
「噛み締めるとだんだん美味しくなるのよ。お米の味が違うわね」
母は大正15年、東京の池袋に生まれました。東京っ子ですから好物のお煎餅はしょうゆ味のもので、しかも極々シンプルな物が好きなようで、ノリのついた品川巻きとかお砂糖の味のするものはほとんど手をつけません。その中でも特に堅焼き煎餅が好きなようで、口の中で噛み砕く時の凄まじい音は爽快としか言いようがありません。しかし「歯は丈夫なんだけど、最近は顎の筋肉が弱ってきて噛むのに時間がかかるわね」と愚痴をこぼしています。