モラルの力

2018年8月30日

動物と人間の違いの中で人間にしか無いものが幾つかあげられます。モラルは忘れてはならないものの一つで、然もその中で中心にあるものです。

動物とモラルはどうなのかというと、生活のほとんどが本能に守られているため二つの噛み合わない歯車のようなものです。モラルは無用の長物と言っていいと思います。人間にも生殖本能、防御本能、母性本能という風に本能は備わっていますがそれらは生物としての人間に属していて、モラルは精神生活の始まりとみていいもので比べるわけには生きません。別の見方をすれば本能は生まれながらに備わっている生得的な能力であるのに対し、モラルは生まれてから後獲得するものという違いも挙げられます。

 

モラルは日本語で倫理、道徳と訳されます。そして人間生活、特に精神生活を善に導くものとして捉えられています。「こうするものです」と言うように決まった口調の高飛車なものです。もちろんモラルと善とは深い関係にあるものなのですが、私はモラルをもっと流動的なものと考えたいのです。なぜかというと、そもそも善が流動的だからです。つまり絶対的な悪と言えるものがないように普遍的な善もないわけで、しかもモラルというのはその二つの間を行き来しながら日々成長しているからです。

善とか悪とか言われているものがどこから来るのか。それは一つの価値観から生まれます。何がよくて何がよくないのかは価値観からの価値基準によって変わります。ある価値観が支配している国から別の価値観が支配している国へ入ると、何が善で、何が善ではないのかが違っていて面食らいます。価値基準がいくつもあるというのは価値観の多様性ですから喜ばしいことですなのですが、何となく足元をすくわれたような気になるもの確かです。当然一人一人の人間もそれぞれの価値観を持って生きているので、そのことを踏まえない権力者が出たりすると社会生活はいっぺんに画一化しファシズムに陥ってしまいます。それは窮屈な社会で、精神的にとても貧弱なものでそこではモラルも硬直し押し付けがましさが目立ってきます。

 

モラルは後天的なものです。そして人生経験とともに深まってゆくものです。そのモラルを作るためにモラル感覚と言えるものを想定してみました。料理を深く味わうために味覚があるようにです。美味しいもの、そうでないものと色々と食べてゆく中で料理を味わう力は育ってゆきます。ところが偏ったものだけを食べていると食わず嫌いができてしまいます。玉石混交というのか、とにかくいろいろなものを食べる中で味覚を通して味わう能力が深まるのです。モラルも同じで様々な善悪に通じることで広がりが生まれ、流動的でしなやかなものとなってゆくのです。しなやかな人間がそこから生まれます。

モラルは偏らないバランスの整った力があります。それはメンタルな部分の力となって人間を支えてくれるものです。99年前、シュトゥットガルトでシュタイナー学校を始めるにあたって行われた二週間にわたる集中講座をシュタイナーは「ただ知的で感情的な仕事にすぎないと思ってはなりません。私たちはそれを、高い意味において倫理的、精神的な課題であるとみなさなければならないのです。(新田義之訳)」という言葉で始めています。モラルが問われているのです。シュタイナーはこの教育を通してしなやかな人間を育てたいと願っていたのです。

 

 

 

 

月食、あるいは影の力 

2018年8月22日

7月27日、ドイツは皆既月食でした。地球の影に入ってしまった赤みを帯びた月を天体望遠鏡と肉眼と交互に眺めながら、影の不思議を堪能していました。

影というのは影の部分と言う様な言い方が象徴しているように大抵否定的な意味合いを含むものです。ところが人影とか、星影とかという日本語は、そのものを指しますから影をマイナーには扱っていません。影は日本語では陰でないのです。そしてこのような捉え方は他の言葉には置き換えられない日本語独特の言い方なのです。

日本的感性は影をポジティブなものと見ているのです。その感性は谷崎潤一郎が陰翳礼讃で取り上げたように日本の美の原点かもしれません。

話が飛躍してしまいましたが、皆既日食に戻ると、今回の皆既月食は地球の影の中の月を見ながら影の面白さの発見だったと言えそうです。

私が覗き込んだ望遠鏡の倍率は大したことはなく、月がすっぽりとレンズの中に入るほどのものでした。まず最初の驚きは、月はまん丸ではなくしっかりと球体だったことです。地球の影の中で月は立体感をもったものでした。ですから何度も繰り返し望遠鏡を覗き込んでしまいました。大げさでなく感動しました。なぜ影の中で月は本来の姿を表すのかと不思議でした。

 

光と影、これは生と死と同じで対になっているもので、切り離せません。生まれれば必ず死にますし、地上では光があるところには必ず影が付いて回わります。

ところが影を伴わない光、光一元という考え方もあります。一体どんなものなのなのでしょう。単なる空想上の現象なのでしょうか。

太陽の光を例にとって話を進めて見ます。

太陽系は太陽からの光で満ちています。そう考えていいはずなのですが、1969年のこと、アポロ11号によって月から送って来た写真は常識を覆しました。その時の驚きは今でも昨日のことのように覚えています。その写真で見た明るい水色の地球の周りは真っ暗だったのです。太陽からの光に満ちているはずの宇宙は光一元どころか真っ暗な闇だったのです。宇宙空間は光に満ちているはずなのに真っ暗闇という事実をそのとき理解できず、周りの大人に聞いて回ったものでした。

そこは光に満ちています。間違いありません。ただ光はあるのに見えないだけなのです。存在しているけれど見えないのが光ということです。光は自らを見えるものにはしないのです。相手がいるということです。

月は太陽の光を反射して、私たちに見えるものになります。私たちは地球から月という対象物に反射した太陽の光を見ています。と同時に光に照らされた月を見ています。太陽からの光がなければ月は見えないのです。ここで興味深いのは光が見えるようになるためには対象物、あるいは障害物といったほうがふさわしいかもしれません、が必要だということです。

月は障害物という働きを通して光を反射して光を見えるものにして、同時に自らの存在をも見えるものになるわけです。光は障害物がないと見えるようにはならないのです。狐に化かされたような話です。

 

このことに関連して思い出すのは、ファラデーというイギリスの物理学者がクリスマスに子どものために行った講演です。ファラデーはその中で、ろうそくの光はろうの中のススがあって初めて明るい光を発するのだと言っています。確かに指でロウソクの炎の中を横切ると指はススで黒くなります。そのススに反射するからロウソクの炎は明るく燃えるのです。炎の中に不純物がなくなると、炎は見えなくなってしまいます。純度の高いガスバーナーの炎はロウソクの炎とは違い周囲を明るく照らすことはありません。

光が見えるようになるには障害物となる不純物がなくてはならないのです。

つまり光だけの世界というのは光に満ちていても闇に等しいものと言えそうです。

まるで人生というのは苦労とか苦しみがあって初めて見えてくるとでも言いたげです。社会は、役に立たない人間がいて初めて輝くのだと言いたげです。

 

 

 

 

 

皆既月食とは、太陽、地球、月の順に一列に並び、月が満月の状態で地球の影にすっぽり入るという現象です。

月が地球の影に入ったら見えなくなるというのではなく、皆既月食中も見えるには見えています。ただ地球によって太陽からの光が遮られるためいつもと比べると満月とはいえ反射する光が弱くはなり、ぼんやりと赤みを帯びた状態が皆既月食です。薄ぼんやりした赤い満月を望遠鏡で覗くと目の前にピンポン球、野球のボール、テニスボールのような球がくっきりと見えます。単に平面的にまん丸のお月さんではなく、ボールのような、手にとって見たくなるような球状の月だったのです。

 

影のなせる技だと思います。いったい影のどんな力が、月を立体的にするのでしょう。

 

 

 

 

 

ピークは夜10時22分でした

すぐ近くに赤い星、火星が位置していたのですが、並んだ二つの赤は対照的でした。

 

火星は今地球にとても近く、そのために赤い点に見えるほど輝いて、望遠鏡で見ると線香花火の最後の赤い玉のようです。

ところが地球の影に入って赤くなっていた月はいつもの元気な満月とは打って変わって、とても苦しそうでした。望遠鏡を通してみると、月はいつもよりずっと立体的で、普段はまん丸の銀盤のように平面的なのとは別物のようでした。実は月はただ丸いだけでなく、球だったのだと当たり前のことに気づかされました。

それ以上に印象的だったのは月食の月は産みの苦しみの姿でした。ウミガメが満月の夜に浜の砂に穴を掘ってそこに卵を産み落としている姿を思い出していました。その時ウミガメは目に涙を浮かべて産卵の仕事を全うします。

一般的、あるいは一般論は危険だと言うこと

2018年7月6日

シュタイナー学校は1919年にシュトゥットガルトに最初の学校が出来たので、来年で百年目を迎えます。当時学校を作るにあたり二週間に及ぶ集中講座が先生になる人たちのために行われました。1日に3講座が、朝・昼・晩と二週間にわたって行われたハードなものでした。そのときの講義録は全て本となっていますから読むことが出来ます。

午前の部の講義録は「一般人間学」と呼ばれ、シュタイナー教育に関心を持つ人は必ず一度は手にする本です。しかし手にしたもののなかなか手ごわい本ですから、シュタイナー教育の入門書として読むには向かないでしょう。私はむしろ「奥義書」ではないかと思っています。シュタイナー教育が基礎としているものが凝縮されていて、何度もこの本に立ち返り繰り返し読みました。

 

一般人間学は訳語で、ドイツ語ではA l l g e m e i n e   M e n s c h e n k u n d eですから、取り敢えずは一般人間学で正しいのですが、でも正しくないとも言えるとこがあり、重箱の隅を突っつくようなみみっちいことかもしれないのですが、「一般」と訳されているところに注意したいのです。

結論だけ先に行っておくと、わたしは「一般」と訳されているところを「普遍」としたいのです。シュタイナーは二週間に渡る午前の講義で人間について一般的なことを語った訳ではなく、人間とは何かを教育と言う仕事を踏まえながら話したので、一般的なことを話したのではなく人間の普遍性とも言えるところに触れているのです。

一般的と普遍的とは違います。

一般というのはみんなに共通したと言う意味があります。例えば人間というのは成長の流れで皆んなに共通したものを通過して行きます。歯が生え替わるとか、思春期が来て肉体的には性的な特徴が顕著になり、心の側から見ると反抗期という時期があります。誰もが避けて通れないもので、それを一般と呼ぶこともできるのですが、成長の際に通過するそうしたことはみんなに共通しているという観点からではなく、一人の人間の中に内在するものと言う観点から見るとき、成長の流れは重みを持って来ます。

私は一般的なというスタンスがどうも苦手だと言うこともあるのですが、一般と普遍との間には相当大きな違いがあるはずで、そこは曖昧にして置きたくないのです。たしかに今日の言葉遣いからして普遍的と言う言葉は大仰で、まかり間違えると宗教の教義の様なものにすり替えられてしまいかねませんが、それだから言って逃げ腰になる必要はなく、堂々と「人間を普遍的な観点から述べているものです」と主張していいものだと思っています。

 

 

一般的なものと言うのはこんな感じです。今中東で起こっている戦争で、自爆テロの犠牲者や大国の爆撃で亡くなった人たちを、新聞やテレビの報道が「今日は何人が犠牲になりました」と数字を報道しますが、抽象的な数字に置き換えらることで、事の次第が一般の人にも伝わりやすくなるのでしょう。

一般の反対は何かと言うと、具体的な現実です。爆撃で亡ったのは「ある人のお父さん」であり「ある人のお子さんや兄弟姉妹」であったりするのです。そこには人間としての心の悲しみが伴っているものです。人間が亡くなるということを単なる数字に置き換えてしまうところが、一般化の中に潜む恐ろしいところと言っていいのではないのでしょうか。お父さんやお子さんを喪った悲しみ、この現実は一人の人間にとって掛け替えのない事なのにどこに行ってしまったのでしょうか。子どもからすればたった一人のお父さんですし、親から見れば愛するお子さんなのです。例えば「昨日の爆撃では50人が犠牲者でしたから、今日の爆撃は比較的小規模だといえます」と行ったニュースの報道に触れると、なんだか虚しくなってくるのです。怒りさえ覚えます。

一人の掛け替えのない命が奪われるのです。戦争犠牲者が数字で示されているうちは戦争は無くならないと信じています。その数字で説明するという姿勢は今では中毒のように蔓延していますが、それが続けば数字に麻痺して戦争がエスカレートしかねない危険すら感じます。

 

もう一つ一般化に潜む危険はパターン化です。パターン化されるところで何が起こっているのかと言うと思考の停止です。思考のベースは問うことだからです。幼児の成長でも、「なに」と言うレベルから「なぜ」に移行するところが見られますが、「なに」と言う覚えるだけでは人間は満ち足りないと言うことです。「なぜ」に移行するとき、人間は宇宙の中で、宇宙に向かって一人立ちします。考える一人一人の人間全てが宇宙の中心なのです。思考が停止すれば一般的なものに流されてしまうのです。

普遍と言う言葉の中に私は一人ひとりの存在の重さを感じるのです。

最近の教育のスローガンの中に個性を強調する言葉が出没します。そこで言われている個性というのは、他人と違うと言う事を強調する傾向が強いと感じるので簡単に受け入れ難いものです。一般的なものに流されがちな中で、一般的と言う考え方に反抗しているのかもしれません。でもそれでは個性は生まれません。

個性と言うのは 自分を貫く所からからしか生まれるものです。それはみんなと同じかどうか、みんなと違うかどうかの問題では無く、自分の中の自分を見つけ出すプロセスできわめて孤独な作業です。しかしこの孤独は孤立とは違います。孤立は周囲と自分を比較するとき産まれる副産物で、ここにも一般的と言う考え方が影を落としています。

自分の中には人間存在が貫いていて、その力で周囲に、世界に宇宙に向かって立っていると言うのが普遍という捉え方です。それは孤独なものですが、その孤独から生まれるの副産物は生きて行く力です。

だから私は一般人間学では無く、普遍人間学という言い方をとりたいのです。