一般的、あるいは一般論は危険だと言うこと

2018年7月6日

シュタイナー学校は1919年にシュトゥットガルトに最初の学校が出来たので、来年で百年目を迎えます。当時学校を作るにあたり二週間に及ぶ集中講座が先生になる人たちのために行われました。1日に3講座が、朝・昼・晩と二週間にわたって行われたハードなものでした。そのときの講義録は全て本となっていますから読むことが出来ます。

午前の部の講義録は「一般人間学」と呼ばれ、シュタイナー教育に関心を持つ人は必ず一度は手にする本です。しかし手にしたもののなかなか手ごわい本ですから、シュタイナー教育の入門書として読むには向かないでしょう。私はむしろ「奥義書」ではないかと思っています。シュタイナー教育が基礎としているものが凝縮されていて、何度もこの本に立ち返り繰り返し読みました。

 

一般人間学は訳語で、ドイツ語ではA l l g e m e i n e   M e n s c h e n k u n d eですから、取り敢えずは一般人間学で正しいのですが、でも正しくないとも言えるとこがあり、重箱の隅を突っつくようなみみっちいことかもしれないのですが、「一般」と訳されているところに注意したいのです。

結論だけ先に行っておくと、わたしは「一般」と訳されているところを「普遍」としたいのです。シュタイナーは二週間に渡る午前の講義で人間について一般的なことを語った訳ではなく、人間とは何かを教育と言う仕事を踏まえながら話したので、一般的なことを話したのではなく人間の普遍性とも言えるところに触れているのです。

一般的と普遍的とは違います。

一般というのはみんなに共通したと言う意味があります。例えば人間というのは成長の流れで皆んなに共通したものを通過して行きます。歯が生え替わるとか、思春期が来て肉体的には性的な特徴が顕著になり、心の側から見ると反抗期という時期があります。誰もが避けて通れないもので、それを一般と呼ぶこともできるのですが、成長の際に通過するそうしたことはみんなに共通しているという観点からではなく、一人の人間の中に内在するものと言う観点から見るとき、成長の流れは重みを持って来ます。

私は一般的なというスタンスがどうも苦手だと言うこともあるのですが、一般と普遍との間には相当大きな違いがあるはずで、そこは曖昧にして置きたくないのです。たしかに今日の言葉遣いからして普遍的と言う言葉は大仰で、まかり間違えると宗教の教義の様なものにすり替えられてしまいかねませんが、それだから言って逃げ腰になる必要はなく、堂々と「人間を普遍的な観点から述べているものです」と主張していいものだと思っています。

 

 

一般的なものと言うのはこんな感じです。今中東で起こっている戦争で、自爆テロの犠牲者や大国の爆撃で亡くなった人たちを、新聞やテレビの報道が「今日は何人が犠牲になりました」と数字を報道しますが、抽象的な数字に置き換えらることで、事の次第が一般の人にも伝わりやすくなるのでしょう。

一般の反対は何かと言うと、具体的な現実です。爆撃で亡ったのは「ある人のお父さん」であり「ある人のお子さんや兄弟姉妹」であったりするのです。そこには人間としての心の悲しみが伴っているものです。人間が亡くなるということを単なる数字に置き換えてしまうところが、一般化の中に潜む恐ろしいところと言っていいのではないのでしょうか。お父さんやお子さんを喪った悲しみ、この現実は一人の人間にとって掛け替えのない事なのにどこに行ってしまったのでしょうか。子どもからすればたった一人のお父さんですし、親から見れば愛するお子さんなのです。例えば「昨日の爆撃では50人が犠牲者でしたから、今日の爆撃は比較的小規模だといえます」と行ったニュースの報道に触れると、なんだか虚しくなってくるのです。怒りさえ覚えます。

一人の掛け替えのない命が奪われるのです。戦争犠牲者が数字で示されているうちは戦争は無くならないと信じています。その数字で説明するという姿勢は今では中毒のように蔓延していますが、それが続けば数字に麻痺して戦争がエスカレートしかねない危険すら感じます。

 

もう一つ一般化に潜む危険はパターン化です。パターン化されるところで何が起こっているのかと言うと思考の停止です。思考のベースは問うことだからです。幼児の成長でも、「なに」と言うレベルから「なぜ」に移行するところが見られますが、「なに」と言う覚えるだけでは人間は満ち足りないと言うことです。「なぜ」に移行するとき、人間は宇宙の中で、宇宙に向かって一人立ちします。考える一人一人の人間全てが宇宙の中心なのです。思考が停止すれば一般的なものに流されてしまうのです。

普遍と言う言葉の中に私は一人ひとりの存在の重さを感じるのです。

最近の教育のスローガンの中に個性を強調する言葉が出没します。そこで言われている個性というのは、他人と違うと言う事を強調する傾向が強いと感じるので簡単に受け入れ難いものです。一般的なものに流されがちな中で、一般的と言う考え方に反抗しているのかもしれません。でもそれでは個性は生まれません。

個性と言うのは 自分を貫く所からからしか生まれるものです。それはみんなと同じかどうか、みんなと違うかどうかの問題では無く、自分の中の自分を見つけ出すプロセスできわめて孤独な作業です。しかしこの孤独は孤立とは違います。孤立は周囲と自分を比較するとき産まれる副産物で、ここにも一般的と言う考え方が影を落としています。

自分の中には人間存在が貫いていて、その力で周囲に、世界に宇宙に向かって立っていると言うのが普遍という捉え方です。それは孤独なものですが、その孤独から生まれるの副産物は生きて行く力です。

だから私は一般人間学では無く、普遍人間学という言い方をとりたいのです。

 

 

 

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