2018年4月19日
イギリスという土地にどのような先住民がいたのか知りませんが、五・六世紀頃からケルト人、アングロ・サクソン人、フランス人が次々と海を渡っているため、今日使われる英語という言葉はその人たちの持ってきた言葉が絡み合い、一筋縄ではゆかない奇妙な混ざり言葉になってしまいました。ヴォキャブラリーにしても、発音と綴りの非同一性、例外の多い文法とケルト語とゲルマン系の言葉とラテン系の言葉が一つの言葉の中で同居しなければならなかったのです。
言葉が混ざるとは言っても、色を混ぜるように一瞬に混ざるわけではなく、気の遠くなるような長い時間を要するもので、英語の場合は千年ぐらいかけて混ざったようです。無理を承知で例えれば、それはあたかもりんごとみかんとマンゴーとトマトを混ぜて作ったジュースみたいなものと言えるかもしれません。どんな味がするかと聞かれてもすぐには答えられない味です。一つ一つをジュースにすれば、りんごジュース、みかんのジュース、マンゴーのジュース、トマトジュースとわかりやすい味ですが、それを全部混ぜたら、それぞれの味が引き立てあって最高の味になるかといえば必ずしもそうではなく、それそれの味がお互いに潰しあって、奇妙な訳の分からない味になることもあるのです。もちろんどんな味にしてもそれを珍味と言えば良いわけですが・・。
私はドイツでドイツ語で四十年生活していますから、その立場から二つの言葉を比較してみると、英語というのが今言ったように、奇妙なわけのわからない珍味な言葉に見えてくるのです。
ではドイツ語はどんな具合かというと、単純なわかりやすい味のするジュースという感じの言葉です。よく耳にするのは、ドイツ語は難しいということですが、それはドイツ人が自分の言葉を特別な言葉だと自慢するためにそう言っているだけの話で、英語のように言葉そのものの複雑さとは無縁のものだと思っています。
ドイツ語は単純なことをどうしたら難解に表現できるのかと磨きます。そこからドイツ語特有の難しさが生まれるので、簡単に言えることがどんどん込み入ってしまい、その結果ドイツ語は難しいということになるのですが、それは言語からくる難しさではなく、ドイツ人気質の難しさ好みが作り上げたものだと私は考えています。
余談になりますが、バッハがドイツで生まれ、しかもドイツ人がこよなくバッハの音楽を愛し、バッハ至上主義から抜けられないのは、この難しさを好むドイツ人気質のなせる技で、同じドイツ語を喋ったのにハイドン、シューベルトはオーストリア人だったのでドイツ人気質にかぶれることがなかったのだと思っています。
英語には、「できるだけ簡略に」という精神があって、表現も簡略化されるわけですが、ドイツ語は逆で「できるだけ難解に」ですから、英語をドイツ語に訳した時に、誤解というか食い違いが生じ易く、挙げ句の果てに、ドイツ人の口癖「英語は簡単だ」となってしまうのです。もちろんどんな言葉でも二つの言葉を翻訳という手続きで結ぶ時には無理が生じるものですが、英語からドイツ語に翻訳するときには特に注意が必要で、翻訳者がで「きるだけ簡略化して言い表そうとしている英語精神」を理解しないでいると、簡略された意味の奥が読み取れず薄っぺらな訳になってしまいます。
去年のノーベル文学賞を受賞したイシグロ氏は小説「日の名残り」で、英国社会に特有の執事の人生を描写したわけですが、そこで氏は英語という言語が持つ特有の複雑さを駆使していて、その複雑さと執事というこれまた特殊で複雑な世界を重ね合わせ、独特の文体で執事の複雑な人生を描きました。私はとても希有な作品だと評価しています。
ところがこのドイツ語訳は英語特有の複雑な絡みを持て余してしまったようで、読んでいると重苦しくなってしまい、もともと執事というものを知らないドイツ社会ですから、この小説の持つ面白さをどう評価して良いのかわからないでいたようで、本はあまり受けず、映画で多くの人が済ませていました。あの文体があの本の命の半分を担っているというのにです。
日本語訳(土屋政雄氏)はそれに引き換えに相性のいい何かを感じました。奉仕する精神に通じるものをそもそももつ日本でも執事の心境が追体験できたことも要因なのでしょうが、英語と言う言語の持つ複雑な絡みが苦なく日本語に移され、しかもドイツ語で読むときには重くなり滅入ってしまったものが、日本語では却って複雑さを楽しめるものになっています。土屋氏の訳業が素晴らしく、私は紫式部の源氏物語の文体をオーバーラップさせて読んでいました。
そこで発見したのが英語と日本語はある共通項があるのではないかということでした。ドイツ語と日本語の間には橋もかけられないほどの溝を感じますが、英語と日本語は「オープンにしたまま言い切れる」と言うところでつながっているのかもしれません。ドイツ語のような鉱物的な鋭角は両方の言葉にはなく、水の流れのような丸みを帯びたところに共通するものがあります。ドイツ語は嘘と分かっていても理屈でごり押ししますが、英語も日本語もそこをオープンにしておきます。ドイツ語にとっては悪い癖と映る曖昧さですから、「ハッキリ言え」と脅かされそうですが、「何でもかんでも理屈で割り切れるものではない」と、英語と日本語は言いたげです。
2018年4月10日
器用と不器用との違いは不器用な人ほど痛く感じているものです。
「器用な方ですね」という具合に器用というのは褒め言葉で、不器用はというと全く反対で欠点を指摘されているからでしょうか。
ところがこの正反対と思われがちな位置関係ですが、発想を転換することによって固定しているものから流動的なものに変わってきます。そして思わず、不器用が大事と叫びたくなることもあるのです。
不器用ということでいの一番に思い浮かぶのが映画俳優の笠智衆です。
小津安二郎監督が、冴えない役者の集まっていた大部屋から笠智衆を拾い上げたのが事の始まりでした。もしこの幸運がなければ笠智衆というや映画俳優は決して陽の目を見ることのなかった俳優で、生涯大根役者と呼ばれ続けたかもしれないのです。
時代劇から現代ものまでなんでもござれのような役者もいます。メロドラマのモテ男役も嫌われ者の悪役もそつなく演じきってしまう役者もいます。笠智衆からはそういう幅広さは期待できません。本当に不器用な役者さんでした。
しかし小津映画の中で笠智衆は異彩を放って輝いています。その輝きの立役者はといえば、小津監督の慧眼はもちろんですが、彼の筋金入りの不器用にあると私は考えています。
笠智衆は映画の中で与えられた役を演じているのでしょうが、出来上がった映画を見ると、どの役も笠智衆という人間そのままが感じられます。どこかに危なっかしさが漂っていて、まるで日常という現実がそのまま映画の中に収まったような独特な味わいがあり、それが小津作品を芸術の高みに導きます。
小津監督の映画哲学は「日常生活が映画になる」というものでした。それは日常生活の有様を映画の題材にするだけではなく、そもそも作り事で、非日常である映画と日常という現実の間に架け橋をかけることだったのです、さらに日常を非日常化することと言えると思います。日常を報告したドキュメンタリーではなく、また非日常の絵空事を作り上げただけのファンタジーものでもなく、日常と非日常の融合こそが映画の果たすべき役割だと考えていました。
小津監督のこの哲学を実現するためには笠智衆という、悪く言えば大根役者のような不器用さが欠かせなかったのです。映画の中の笠智衆のあまりの不器用さは滑稽でもあります。が却って見ている人に現実の自分の父親あるいはおじいちゃんを強烈に連想させていたはずです。そしてそこに小津映画のみが持つ、映画という非日常的緊張感の中に独特な安心感を作り出したのです。
不器用な人間には素朴さ、朴訥感があります。それ以上にこの不器用さには意外な秘密が隠されています。誠実感です。誠実さというのはこの不器用からくることがあるのです。
小津監督も実は不器用な監督だったのではなかったのかと想像しています。小津映画の持つ透明感は他の監督の映画からは得られないもので、そこを通奏低音のように流れているのが誠実さです。小津映画は、嘘八百をかき集めた非日常の中を誠実さが貫いていることで、何年たっても褪せないのでしょう。不器用に裏打ちされた誠実さのなせる技です。この誠実さ、真面目というのとは違って、なんともほくそ笑んでしまう不器用から生まれた、どうしようもない純粋さです。
2018年3月31日
指の巧みな動き、その美しさに見惚れることがよくありますが、演奏家の指さばきもその一つです。
ピアニストの指は鍵盤の上を目まぐるしく動き回ります。ある時は想像を絶するような速さで動き回っています。強さも尋常でないことがあります。ピアニストだけではなく弦楽器の奏者も同じように音を探し求めてまるで曲芸師のように動き回ります。
そうした動きは音楽があるから可能なのだと考えています。音楽に導かれることであのとんでもない動きは生まれるのです。
もしピアノから離れ、音楽がなかったらと考えてみると、そんな風に指を動かすなんて精神異常者に間違えられてしまうかもしれません。それだけでなく、音楽なしであの動きをしたら、必ず指を壊してしまいます。指だけではなく腕も腱鞘炎の犠牲になること請け合いです。
早い動きはとても興味深いものですが、ゆっくりの動きもなかなか魅力のある動きです。素人目には早い動きがインパクトがあって印象に残りますが、ゆっくりの動きの味わいは玄人好みと言えるかもしれません。もちろんこのゆっくりの動きも楽器から離れ音楽なしでやったら精神異常者に間違われる可能性大です。
そうしてみると演奏というのは、正常なのか異常というべきものなのかの、なかなか際どいところにあるものだと言わざるを得ないもののようです。
音楽に導かれる指の動きと、音楽を弾こうとしている指の動きは違います。もちろん指の動きだけでなく、音楽の質にも違いが見られるものです。
音楽に導かれて指からは癖のないピュアな音楽が生まれます。しかし弾こうとしている指から作られる音楽は一癖も二癖もあって、世の中にはこれを個性と言っている向きもありますが、私には自己主張以外の何物にも聞こえないものなのです。
音楽に導かれている時は手の内側に力のインパクトがあって、動きのすべてがそこから生まれるのに対し、弾こうとしている時の指は手の甲から動きをもらってきます。つまり演奏する人の意思が無になればなるほど手の内側に力が集まり、そこから、ピアノの場合、指は鍵盤の方に引っ張られるような動きになりますが、弾こうとする意思が強く働くと手の甲に意識が集中してきます。ある意味作為的になります。
手の内側はなかなかコントロールできない部分で、そこに力が宿るようになるためには訓練というのか修行と言ったほうがいいのか、気の遠くなるような練習を積まなければならなようです。
この違いは手の形や指の形からは、ちょっとみただけでは読み取りにくいものですが、その違いを習得した人間には、直感的にとしか言えないですがわかるものなのです。顕著に現れるのは実際に演奏された作品の出来具合です。
ピュアな音楽に憧れるのなら、手の内側に力が集まるように修練を積み努めることなのですが、意識でコントロールできないので、一人でするのは難しいです。そこのところをよくわかっている先生に出会えるのが一番の近道のようです。一人でやっていると、手っ取り早く上手に弾けるようになりたいという落とし穴が待っていますから。
個性的なものにはならず、没個性、無個性という何度聞いても飽きない音楽が生まれるためには大変な年月が費やされているもののようです。そして、どんな芸術にも共通していることですが、優れたものというのは、もう一度その作品の世界と出会いたいということに尽きるのではないのでしょうか。