芸術は音楽の状態に憧れる

2018年2月5日

ショーペンハウェルの本の中で、「全ての芸術は音楽の状態に憧れている」という表現に、二十代の前半に衝撃的に出会いました。当時はこの表現が何を言いたいのかがよくわからず 半ば素通りでした。しかしこの言葉はその後もよく耳にし、その度に色々と思いめぐらし理解を試みたのですが、長いこと理解しにくいものでした。

 

またこんな言葉の前で立ち止まったこともあります。

薬師寺の西塔を見た建築家が感動のあまりに、「凍れる音楽」と呟いたというもので、この言葉はショーペンハウェルのとは違い、読んだときに「全くその通りだと」鳥肌がたちました。薬師寺の塔をイメージするとそこから音楽が迸り出て来て、音楽と建築の両方があい補いながら浮かび上がって来たのを思い出します。

この他にも音楽と他の芸術を比較した言葉はいくつもあった様に記憶しています。

 

音楽が芸術の中で特殊な位置に置かれている、そのことにはおぼろげながら近づけた気がしていますが、まだまだ曖昧模糊としていて一体何が特殊なのか、どう言う風に特殊なのかは一向に具体的なイメージ掴めないままでした。

 

音楽の状態というのがフィルターだとしたらのような、なぞなぞ遊びを試みました。

実際に音楽の状態がフィルターだとして、他の芸術がそのフィルターを通ると何か余分なものを濾過してゆくとでも言うのでしょうか。

あるいは、ここで言われている音楽の状態と、私が好きで聞いているいつもの音楽がどう言う関係にあるのでしょうか。見当がつかない中で、いつも聞いている音楽をいつもの様に聞きながら、例のフィルターを通してみたくなったこともあります。しかしそのフィルターがみつからないのです。もし見つかっていたら、そこで一体何が濾過され、何が残ったのでしょう。

 

ハイドン、モーツァルトを好んで聞いていた時期があります。特にモーツァルトをです。そんなある日、この音楽はもうこれ以上簡略化出きないと感じたのです。さらにこの音楽から受けた印象は、あのフィルターを通したとしても何の変化もなくそもまま出て来そうだということでした。そして、あの音楽はもしかしてあのフィルターに限りなく近いのではないのかと思えてきて、「音楽の状態」へのヒントがつかめた気がしたものです。

 

今にして思うのは、音楽と言う芸術は何かを抽象化しながら存在していると言う事です。この「何か」は人生体験かもしれませんし、直感的なことかもしれません。今目の前にある人物や風景かもしれません。勿論ほかの芸術、絵画、彫刻もその何かを抽象化するという過程で創作されるものですし、そもそも芸術という仕事の中にある大切な課題が抽象化なのでしょうが、その度合いが音楽の時が一番強いという事のようです。抽象化という共通の課題がなければ、ほかの芸術と音楽は別々の線路の上を走っていることになり、目的地が別のところにあるので憧れは生じないはずなのです。

現実の生活空間の中に題材のある他の芸術とは違い、音楽は非現実的であり、非空間的であり、物としては非対象ですから、この抽象化のフィルターというお役をいただいて、そのフィルターを通すことで、他の芸術の本質的なところを精製すると理解できるのかもしれません。それにしても「全ての芸術は音楽の状態に憧れる」と言い切るのは大胆です。

 

西洋の音楽の歴史に照らしてみてもこのフィルターが大きな、貴重な役割を演じたことが見えてきます。

ドイツ古典派と言われる音楽のところで、それまでの音楽は極度に抽象化され、その後の音楽の出発点として君臨しているのです。この抽象化があったことで民族のちがいを超えて多くの人の心を打つ力になっているのです。

ドイツ古典音楽が絶対音楽と呼ばれる由縁はここにあると考えています。

声のすすめ

2018年1月27日

「はい、息を大きく吸って」、「はい、息を止めて」、「はい、吐いて結構です」。

レントゲンの時の決まり文句です。

よく似たのを思い出しました。

「はい、鼻でもって静かに、ゆっくり、深かーく息を吸って下さい。いっぱい吸ったらしばらく止めて、五つ数えますから、そうしたら今度は楽に口から息を吐いて下さい」。

これはその昔、私が瞑想教室で習った呼吸です。

似ていて非なるものです。

 

世の中には、いろいろな考え方から生まれた「呼吸法」があります。どのくらいあるのか把握していませんが、腹式呼吸、丹田呼吸法、禅の呼吸等々、知っているのを数えただけでも相当な数になります。

それらは心を落ち着かせるために用いる簡単な深呼吸から、瞑想に導くものまで多種多様です。役者や声楽家達に声の出し方を指導している、声の指導者、ヴォイストレーナも呼吸が基本です。

普段は何も考えずに息をしていますから、当たり前にあるのが呼吸ということになります。しかし一方で膨大な量の呼吸法、さらに医学の分野に分け入ると内呼吸と外呼吸に分けたり、細胞呼吸というのまであって複雑なものになってゆく呼吸ですが、基本的には実に単純極まりなく、そこではただ、レントゲンの時も瞑想の時も「吸って吐く」だけのことしかしていないのです。

 

人間はこの単純極まりない呼吸から文化を作り上げたのです。精神文化をです。呼吸文化と呼びたくなる文化です。今日はここに焦点を当てて見ましょう。

この文章の準備をしているとき、私たちが文化と呼んでいるものの多くが呼吸と密接な結びつきにおどろきました。精神の集中、精神修行を口にする人は必ず呼吸にも話が及びます。茶道、華道でも呼吸にまつわる比喩が多く使われます。相撲、剣道、柔道、合気道と武道に至っては呼吸はかなり具体的です。欧米から来たスポーツも呼吸の大切さを知っています。ストレッチにも呼吸は大事ですし、一見何の関係もなさそうなのに重量挙げも呼吸が合わないと力が入らないのだそうです。

芸術の分野、とくに音楽は呼吸を抜きには考えられません。歌の世界、音楽の管楽器演奏はまさに「呼吸の芸術」です。弦楽器、打楽器は直接関係なさそうなものですが、呼吸の仕方で音がかわつてしまうのです。鼓は特に呼吸を重視していて、吐く息の時に打つ、呼吸そのものの打楽器なのです。

こうして呼吸と結びつきながら花開いだ文化を源泉までたどると、ある事に気がつきます。人間はある時呼吸に目覚めたということです。目覚めたというのは、ただ息をすって吐いている呼吸を意識するようになったということです。そして次第に意識されていった呼吸が、本能の中にまどろんでいる呼吸からぬけだし文化を支えて行ったのです。

 

文化への憧れが人間に先に目覚めたのか、呼吸への意識革命が先かはわかりませんが、呼吸のこのプロセス、呼吸に目覚めるプロセスがなかったら呼吸が文化を支える事にはならず、人間は普通に呼吸するだけの生き物のまま今日に至っているかもしれないのです。

 

呼吸と心は切り離せないものです。不動心獲得のため、修行者は呼吸を意識下でコントロール出来る様に訓練します。他にも滝行や千日回峰行のような荒業がありますが呼吸のコントロールが不動心には欠かせません。身近な日常生活でも呼吸を整えることは随分活用されています。人前で話す時、例えば結婚式の祝辞や、学校の役員になって、卒業式などで話すとき、心を落ち着けるためにも呼吸を整えます。深く深呼吸をしてから壇上に登ってみてください。きっといい話ができます。服薬、注射など心が乱れている時には落ち着かせるためにまず深呼吸をさせます。

心を安定させるためには精神安定剤もいいですが、それを注射する前にまず深呼吸させたりするのですから、心の安定には呼吸を整える事が一番の近道という事です。

しかしなぜ呼吸は心に直接的に働きかけられるのでしょう。当たり前の様になっているのでそれ以上深く考えませんが、興味深い現象です。

そんなことを考えている時一つのイメージが浮かんできました。最近は脳生理学が心について説明しますが、それとは全く別のイメージでした。

そのイメージは実に奇怪なもので、「心は空気が凝縮したものだ」という説明しようにもすぐにはわかってもらえそうにないイメージです。

同時に屋久島を旅行した時の出来事を思い出していました。樹齢7200年と言われる縄文杉を目指す観光客を島の老人たちが見て、「あの人たちじゃ今日は雨だなぁー」、と話しているのを耳にした時のことです。心の持ちようで天気が決まるというのです。狐につままれた様な話で、その時は「そんなことはあるはずがない」と、受け入れられませんでした。しかし彼らにとっては経験的に疑ぐる余地などこれっぽっちもなかったのが衝撃的でした。

呼吸は酸素と二酸化炭素の交換という働きがあります。これは誰もが知っている事です。呼吸の影響力はそれだけでないのです。すでに見た様に具体的に、しかも直接的心に影響しているわけです。そこまで経験でわかりますが、さらに天気にまで影響しているとなると、なかなか受け入れ難いものです。。

そこをどう整理したらいいのか模索している時、屋久島の老人の確信しきった顔がしきりに脳裏をよぎるのです。圧倒的なちからです。そこに直感が降りて来ました。呼吸する時心は空気から力をもらい、そして同時に空気に力を返している、そんな直観でした。

こんなとんでもないイメージが私の中でどんどん膨らんで行くのです。いまではそんなこともあるかもしれないと晴れ上がった空を見上げるほどになっています。

 

さて、このブログは声を看板にしていながら呼吸の話ばかりになってしまいましたから、そろそろ声のことに移らなければなりません。。

単なる物理的な音と声とは全く違うものです。声を小さくしても、しかも遠くでそれを聞いてもよく聴こえるのです。これは私のワークショップで何度もやっていますから実証済みです。ラジオなどの音は小さくしてしかも遠くに置いたら聞こえなくなってしまいますから、声は特別なものなのです。理由は、声は呼吸と心が響いているのに普通の音は単なる物理現象だということです。声は物理的な振動を伝える音でもありますが、それだけの音ではなく呼吸と心に満たされている音なのです。つまり声には心が詰まっている、心そのものが音になっているということです。よく通る声は大きな声、声量の豊かさによってきまるのではなく、つまり物理的音量で遠くまで響くのではなく、声の中の心に力があるかないかで決まるのです。心に力のない人の声は貧弱です。肉体的に弱っている人の声、うつ病に悩んでいる人の声は小さいのではなく貧弱なのです。病は気からだと私は信じています。肉体が病んでいる時、心に力がない時は貧弱な声になってしまいますから、声を通しては何も伝えられないでしょう。

 

人類史的に、呼吸と声の出会いは衝撃的なものだったはずです。それは声帯の誕生の時です。これは三木成男さんの「子どものこころ」から素晴らしい示唆を頂きました。とても貴重な指摘ですので引用します。

「脊椎動物の歴史の中で最も目ざましいものは、あの古生代の一億年をかけた上陸の物語であるが、その時からだに起った革命のなかで一番目につくものは、ヒレが四肢に変わったこととエラが退化してクビができたことであろう。」

直接声帯のことには触れていませんが、のどぼとけがあるところに声帯が位置しているのでクビができた時に声帯も準備されていたと考えていいと思います。

呼吸が声として響きはじめ、しばらくすると声に言葉が宿ってきます。その時点から呼吸文化は飛躍的に進展します。この辺りのことは幼児の成長の様子と重なっていますので、詳しく観察すると興味深いと思います。

現代は言葉に非常に関心が寄せられている時代です。したがって言葉の研究は盛んなのですが声と言葉の結びつきに関する研究はまれです。さらに言葉といってもコミュニケーションの方面に偏っていて、言葉の全体像はなかなか掴めないものです。

コミュニケーションを研究してい人から聞いた話ですが、相手に何かを伝える時、その人の相手にとっての印象が56パーセント、その人の声が占める割合は38パーセントとだということです。これですでに94パーセントですから、言葉、すなわち意味内容というのは残りの6パーセントしか仕事をしていないということになります。

声が言葉と結びついたというのは、幸せなことなのでしょうか。幸せだとしてもたかだか6パーセントの幸せに過ぎないのでは大した幸せではなさそうです。私たちは用をたすための言葉を過信し過ぎているのではないかそんな気がしてきます。

言葉を話すということで直ぐにコミュニケーションが成立すると考えがちですが、言葉を話すこととコミュニケーションは直接結びつかないものです。この二つはもともと別のもので、言葉でしかコミュニケーションができないと考えるのは愚愚の骨頂です。言葉は機能的に用を足す時には大いに役立つものですが、それ以外の文学の世界などで使われる言葉は実に不確かなものだと言うことも知っておかなければならないと思います。一般的な意味よりも主観的なイメージ性の強いもので、それはコミュニケーションだけで言葉に関わっていると見逃してしまうところです。言葉の意味ではなく、言葉のイメージの方が言葉本来の姿に近いものだと思います。そしてコミュニケーションは人間が言葉を習得する以前から存在していたのです。コミニュケーションはテレパシー、以心伝心、遠隔透視、虫の知らせというのは言葉に頼らない、言葉を持つ以前からの手段なのです。最近は植物のコミュニケーションも明らかになっていますし、イルカのコミュニケーションの優秀さは有名な話で、それらは言葉なしで成立しているのです。

言葉とコミュニケーションということで付け加えれば、皮肉な言い方ですが、コミュニケーションに見られる誤解は言葉から生まれているものが相当あると言うことです。言葉というのは一つの言語集団、普通民族と言っているものに与えられています。語彙、単語は共通でもそこから意味を導き出してくるのは個人の生活経験だということです。それがさらにイメージ化して行きます。言葉の意味、イメージは、辞書にある様なものではなく、一人一人それぞれが違う経験で作っているものなので、そこの違いを踏まえず、安易に同じだと前提してしまうことが誤解の元なのです。

 

 

声が言葉を得たことで、声には革命が起こります。ここでいう言葉は単にコミュニケーションの道具としての言葉ではなくて、声に形を作ることになるもので、声はそこで鍛えられしなやかになってゆくのです。言葉を喋る声と喋らない声とはずいぶん違います。聾唖の方たちは、言葉を聞くことがないために言葉を模倣できずにいるわけですが、言葉を喋る人達と声の点で比べるとそこには声のしなやかさと言うことで大きな違いが見られます。

ただ言葉と結びついたことで、声はいつも使う言葉、母国語が喋り易いものになることも事実で、そのため他の言葉、外国語を喋る時には、どうしても母国語の癖が残ってしまいます。でもそれは声が言葉と結びついたことで得たしなやかさを否定するものではありません。

 

最後に吐く息と声について見てみようとおもいます。

吐く息とともに声を出します。これは呼吸が声を得てから今日に至るまで変わっていません。吸う息では声になりません。実はもう一つ声について大事なことがあるのでそのことにも触れます。

声にはしなやかさに加えて、安定と言う課題があります。安定した声は歌うことで作られます。音の高さは喋る時の言葉ではほとんど動きません。喋る声は一定の高さである時が聞きやすいものです。しかし歌というのは色々な高さの音からなっていて、それを正しく声にすることで、歌になります。音痴な人は声の高さを動かすことが苦手な人での事なのです。

声は言葉を喋ること(声のしなやかさ)と歌うこと(声の安定)で質が向上します。しなやかで安定した声になるのです。

よく言われる声の良さですが、それは体質的なものと関係しているので、いわゆるいい声を作ろうとすると体質、体の癖、声を出すときの癖をいじることになるので、却って声が悪くなってしまうことがあります。それだけで済めばいいですが、声を壊してしまうこともありますから要注意です。声は生まれもったままの声が一番良いのです。

吐く息で声になるのですが、それではまだ声としては力不足です。確かに声にはすでに空気が内在してして、しかも心に満たされているのですが、それでも吐く息に任せているだけではまだ力不足なのです。ではなにを補ったらいいのでしょう。

吸うのです。勿論吐きながら空気は吸えません。吸うのは空気ではなくて、「気」を吸うのです。吸うという言い方では誤解が生じると思うので、「気」を受け取るとした方が私の言いたいことに近いかもしれません。

素晴らしいホルン奏者との出会いがあり、その人と仕事をした時に、どうしたらその様な音ができるのか聞きました。彼曰く「ただ息を吹き込んで音を出しても大した音にはならなくて、息は吐きながら同時に意識的に吸うことで、丸みのある、ふくらみのある音になる」のだそうです。吐く息だけで作られた音は硬く、うるさく耳障りなものだそうで、優秀な管楽器奏者だけでなく、優れた歌い手も同じ様に吸う力を補って歌っているものだという事でした。「ホルンの音を出すまでも大変な訓練だが、この吸う力をマスターしない限りプロのホルン吹きとは言えない」と言うのです。

息を吐きながら気を吸う、意識を吸う。なんたることか。そんなことをプロの音楽家たち、管楽器の奏者歌い手たちはやっていたのです。

呼吸は音楽世界を作り出しました。しかし音楽の世界がさらに進化するためには、意識を呼吸しなければならないと言う課題が見えてきます。

進化した声は吐く息で作られるエモーショナルな声に、外から、バランスを取る様に、意識された気の力が流れ込んできて生まれます。それはあたかも息を吸う時の様なものです。しかし空気を吸っているのではなく、日本語で「気」と言っているものが私たちに向かってくるのです。見えないですが「気の流れ」があり、それと吐く息が混ざって豊かな声は作られるのです。

民謡を歌う人たちの間でも、ろうそくの炎に向かって歌って、炎が吐く息で消されてしまう内はまだ修行が足りないと言われています。

吐く息だけで音になった音はうるさくて聞くに耐えない騒音だというホルン奏者の友人。外から私たちに向かってくる「気の流れ」と一緒にならないと音楽的な音にはならないのです。

ロウソクの炎の話は民謡の歌い手さんだけでなく、すべての歌い手に共通することです。もちろオペラ歌手と言われる西洋音楽の声楽家たちもです。そこを習得した歌い手だけが、聞き手の心を打つ歌が歌えるのです。話すときにも同じで、声の中に外に向かって吐き息とバランスを取る様に私たちに向かってくる「気の流れ」を取り入れないと、他人に聞いてもらえる魅力のある声にはならなのです。

そんな声で喋り歌っていたいものです。

 

 

 

ジャクリーヌ・デュ・プレ

2018年1月20日

音楽をするための楽器をインストルメント(instrument)と言いますが、そもそもの意味は道具で、職人さんたちが作業に使うものは皆このインストルメントです。

優れた職人さんは道具を知り尽くしていて、道具が体の一部になってしまった観があり、仕事ぶりを見ているとそれだけで良いものが生まれる理由がわかります。宮大工の西岡常一さんが薬師寺の塔の建築の時に職人さんを選ぶのに道具箱の中の鑿(のみ)、鉋(かんな)、鋸(ノコギリ)と言った道具、インストルメントをいの一番に見たと「木に学ぶ」で読んだ時、道具の命を知ることと良い仕事とは切っても切れない縁があることを再確認しました。

音楽での演奏家と楽器も同様で、演奏する人は自分の楽器を知り尽くさなければ良い演奏ができません。しかし最近は楽器を単なる道具に見立てて、楽器演奏をショウ的にパフォーマンスする人が多いのにはびっくりします。

 

今日はチェロの話です。以前にブログでエマヌエル・フォイアマンのことは紹介しましたが、彼はまさにチェロそのものの人でした。楽器を知りつくし、チェロの命に通じていた人でした。群を抜いた技術を持ちながら、技術に振り回されることがないだけでなく、人間的に衒(てら)いがなく、自然体でさりげなく弾くのです。人間フォイアマンを音の隅々まで感じる、一度聞いたら忘れることがでないその音は印象深いものです。

性格的にも優しい、人思いな人だったそうで、しかも剽軽者(ひょうきんもの)で人を笑わせてばかりいたという心底明るい性格の人と彼を知る人たちは口を揃えて言っています。42才で盲腸の手術の失敗が原因で亡くなった時、突然の死に世界中の音楽ファンが彼を失った悲しみを言葉にしていました。

 

今日もう一人私がいつも新鮮な思いで聞いている、やはり42才という若さで、30年前に亡くなったイギリスの女性チェリストの話をしたいと思います。28才で病気のため(マルチプル・スクレローゼ、MSと省略して言われています)演奏活動を終え、14年の闘病生活の末なくなりました。

残された録音を聴いていると、名演奏といった一般的な言葉では語り尽くせない、彼女にのみ許された一回性の演奏に出会えるのです。聞けばすぐ彼女の演奏だとわかります。そして何度聞いても新鮮さがなくなることがないのです。

彼女の手にかかると音楽は、言葉は悪いですが「ピチピチしていて本当に生きのいいもの」として生き始めます。繰り返しますがいつも新鮮なのです。その新鮮さの秘訣は、自信をもって言いますが、演奏しているとき彼女が全身全霊で一音一音に出会っていることに尽きます。出会うと言うのはその一音一音に命を吹き込むことです。パフォーマンスではなく、音に向かって素になり弾き込んで曲を歌いあげるのです。彼女の音はいつもチェロが自ら歌っている様でした。

言葉にしてしまえばそれだけのことですが、それだけのことがなかなか出来ないのです。演奏技術が未熟だと音を捉えきれませんし、技術がついてくると技巧に任せて弾いてしまい、やはりしっかり音に出逢えないのです。どちらの演奏にも後味の悪いものが残ります。

生きた音と死んだ音とがあるのです。死んだ音は楽譜に閉じ込められたままでそこから抜け出せない音で、生きた音は楽譜から抜け出して私たちが生きている空間と時間を私たちと一緒に呼吸し、泳いでいます。優れた演奏家は楽器を知り尽くした上で、上手に楽譜から音楽を引き出す術を心得た人達なのです。

 

ジャクリーヌ・デュ・プレはそんな資質に恵まれたチェロ奏者でした。

彼女のことを友人たちが回顧しながら話しているのを聞きながら、茶目っ気たっぷりな悪戯っ子の彼女に備わった、間抜けな、ノーテンキの自然体という側面が見えてきました。高貴な淑女のようでありジプシー女のような(わたしは野性味と理解しました)ところも持ち合わせていた様です。いつも底抜けに明るく笑っていたので、あだ名は「スマイリー、smiley」、冗談を言いながら周囲を明るくすることを忘れなかった、ユーモアの精神を地で生きた人だった様です。ここからも生きた音が作られていたのでしょう。

それだけでなく、多くの共演者たちが、合奏のときに他の演奏家たちが弾きやすくなるように(気づかれないように)配慮していたことを口々に述べています。彼女と演奏できることの幸せをいつも感じていた様で、最後に「I miss her (彼女がいなくて寂しい、彼女にここにいてほしい)」と言う言葉で涙ぐむように締めくくります。

こんなに人を愛し、人から愛され、音楽を愛し、音楽に愛されたた人が弾くチェロの音です。きっと生きることの素晴らしさを語りかけてくれると思います。人間の高貴さを讃え、人間の無限の可能性を共に感じ、生きていることの幸せに包まれる、パフォーマンスを超えた確かな手応えが彼女の音にはあります。

You Tubeは彼女の生前の友人、知人の音楽家たちが彼女を回顧しながら思い出を語っています。英語ですが、字幕のところをクリックして、活字の英語を頼りに頑張ってください。

Who was Jacquline du Pre? by AllegroFilms