2017年5月1日
この諺は朝をたたえたドイツ語の諺で、詩情がありもともと諺があまり好きでない私でもうっとり朝の静謐さに浸ってしまいます。
ドイツ語では「Morgenstunde hat Gold im Mund」と言います。
爽やかな朝のひと時、特に天気の良い日は、一日のうちでも特別な時間帯で、いい仕事ができそうな気分になるのは私だけではないようです。ゲーテが晩年ファウストの第二部を書きあげた時、書いたとは言っても口述して秘書が文字にしたのですが、仕事はお昼までだったと読んだことがあります。作曲家のシューベルトも午前中に作曲して、午後からは散歩に出たり、夜は友達と音楽したり音楽会に出向いたり、あるいはいっぱい飲みに出かけたりしていたそうで、作曲は専ら朝が運んでくるゴールドから直感をもらってやっていたのでしょう。午前中だけで8曲の歌曲を書いた日もあるということです。
ただ直感の源は何かと考えてみるともう少し深いところに話が行きそうです。朝のすがすがしさはもちろんなのですが、大事なのはそれよりも、どちらかというと、眠りから覚めたとき、余韻として残っている「眠っている間の体験」のような気がするのです。睡眠中に何が起こっているのか、私たちは知らないわけです。いつの日か解明された時には、もしかすると革命的なことが精神生活を理解する上で起こるかもしれないのです。きっと起こります。しかし今のところ寝ている間のことは謎です。
朝、目覚めた瞬間、時々ですが、私はなんでも知っているような気がすることがあります。とはいっても、誰かに面倒臭いことを質問されても、それに答えることはできないのですが、それとは別のところでなんでも知っているような気がするのです。どこにも根拠がないのですが、ありとあらゆることを知っているような気がするのです。
ところが一日が終わる夜になると、こんどは全く逆で、私は何も知らない、まるで小さな一点にまで押しつぶされたようなつまらない人間に見えてしまうことがほとんどです。その日、楽しいことがたくさんあっても、つまらないことばかりの連続であっても、基本的には変わりがなく、夜はつまらない惨めな粒のような人間に見えてしまうのです。
一日は時間の量からいうと、24時間からなっています。そして構成的には朝から昼になりそして夜が来るのです。しかし私には、一日という単位はただ時間が流れ過ぎ去ってゆくだけではなく、何か別の意味があるように思えてならないのです。特に起きている時と寝ている時の違いを考えるとまるで手袋の表と裏のような、一つであり別のものです。私が目覚めの時に感じる自分と夜寝る前に感じる自分の違いも同じ一日の中で起こっていることなのです。
ゲーテは昼を過ぎて午後になるともうインスピレーションが湧かなかったので、仕事は午前中で切り上げたそうです。もしかすると夜の体験が薄れて行ってしまったからではないのでしょうか。シューベルトには興味深い話があります。真夜中に目が覚めて、ろうそくの薄暗い光の中でピアノ五重奏の「ます」を書いたという言うことが言われていますが、単なる逸話ではなくその時不注意にもこぼしてしまったインクのシミが楽譜に残っているのです。真っ暗な夜、薄暗いローソクの光の中で、あの明るい日差しの中できらきら光る「ます」のメロディーが思い浮かんだのです。
寝ている間の体験は、夜というイメージとは裏腹にとても明るいもので、その体験は光に溢れているものなのかもしれません。
2017年3月31日
エフキニー・キーシンは今年四十六歳になるピアニスト。久しぶりに彼の演奏を聴いて、YouTubeでしたが、目から鱗で、ノートパソコンからの音なのに釘付けになってしまいました。同時に演奏の持つ奥深さを教えられた思いがしたので報告します。クラシック音楽は作曲する人と演奏する人に分かれています。その演奏の側のもつ神秘はなかなか体験できないものですが、キーシンの演奏で久しぶりに演奏の不思議に出会えた思いがしたのです。
四十六歳のピアニスト。これだけの説明なら私の周りを見渡すだけで幾らでも居るので珍しくはないのですが、すでに演奏活動三十五年となると、世界広しといえど彼の他に何人数えられるでしょう。十一歳ですでにコンサート歴を持つ早熟な少年でした。早熟に焦点を当てれば、他に何人も居るのでしょう。今日の社会的な傾向でもありますから、五・六歳くらいの子どもが大人顔負けの演奏している様子が動画にアップされています。が、キーシンの素質はその後も着実に成長を遂げたことで、しかも彼だけが到達できる高みに到達したことです。
彼は音楽コンクールに縁のない人で、今日音楽活動をする上で(商業的にということです)不利を強いられるわけですが、そんな逆風をものともせず、高い評価を得て、世界をまたにかけて精力的に演奏活動を行なっています。
私を釘付けにしたのはシューベルトのピアノソナタ17番ニ長調D850でした。実はこの曲、今までどう聞いたらいいのか分からずにいた曲の一つで、好きで繰り返し聞くシューベルトのソナタですが、この曲だけはいつしか避けて通るようになってしまっていたのです。
ニ長調の難しさ、シューベルトとニ長調は相性が悪いのだと心の中で決めていた節もあります。そもそも歯切れがいいのがニ長調ですが、度がすぎるとシューベルトではなくなってしまいます。あるいはメロディーに拘りすぎるとニ長調が後ろ髪を引かれるようなモタモタしたものになってつまらないものに変わってしまいます。じつに厄介な曲なのです。
そのシューベルトのニ長調がキーシンの演奏で蘇った、そんな思いで聞いていました。
キーシンという演奏家が紡ぎ出すピアノの音には驚くほどの幅があります。鋭い覚めた音から瞑想的と言っていいほどの眠り込んでしまいそうなとろける音まで自由自在に弾き分けます。ところがその一つ一つは、技巧的ではなく、キーシンの人となりに裏打ちされているので全く嫌味がないのです。この点ではチェロのエマヌエル・フォイアマンによく似ています。キーシンが弾いているというより、キーシンは音楽に誠実なだけなのだという気がします。演奏は解釈ではなく、音楽が求めているものを聞き分け、それに忠実に従っている、そんな誠実さです。
特に感銘を受けたのはどんなに早くなっても一つ一つの音に責任が感じられることでした。音が大きくなるところでも唯音量として大きな音というのではなく、しかも勢いに任せて弾いてしまうということもなく、どの音を一つ取ってもキーシンの演奏意志のコントロール下にある素晴らしいものでした。一音一音に全く隙がなく、この曲の隅々まで味わうことができたという満たされた演奏でした。
Evgeny Kissing plays Schubert and Scriabin – YouTube
2017年3月29日
ハイドンの音楽はいいですよ、と言いたくてこの文章を書いています。
ここ何ヶ月は自分の持ち物の整理を強いられています。持ちすぎた物の整理といったほうがいいようです。その中の一つにレコードの整理があります。ほとんどがいただいたものなのですが、懐かしいレコードのジャケットを見ながら、手元に残すか、捨てるかを強いられているわけで、肉体的にというより心理的にきつい仕事です。
昨日ハイドンのレコードをまとめておいた所を整理していた時、最近ハイドンの音楽を聞いていなかったこともあって、久しぶりにハイドンの音楽との出会いを色々と思い出して浸っていました。
ハイドンの音楽の特徴、それは何をさておいてもシンプルさです。ハイドンを聞くというのは、そのシンプルな響きに出会いたかったからでした。指揮者フルトヴェングラーがハイドンのシンブルさを、天上的なシンブルと呼んでいたことをジャケットの文章で知り、わが意を得た思いで嬉しくなってしまいました。
そのシンプルさ、実に楽天的なんです。19世紀になってから見え隠れする深刻さとは全く違うもので、さらに澄み切った空気、そしてその中に輝く太陽の光といったものを加えるとハイドンが見えてきます。
弦楽四重奏、チェロ協奏曲二番、ヴァイオリン協奏曲の一番はレコードが擦り切れるくらい聞きました。そのたびに、演奏する人にも寄りますが、ハイドンの優しさに触れる思いがしたものです。感動するというより、澄んだ空気の中を散歩している時のように心地よく、癒されていたような気がします。
整理の手を休めてしばらくハイドンの世界に耳を傾けていると、だんだん自分がいい人になって行くのです。勿論錯覚です。
でもそのあとの仕事がはかどったことは事実なんです。