2016年8月30日
私はドイツ語の深いところをシューベルトの歌で学びました。シューベルトの歌を歌うことがドイツ語の勉強には欠かせないものだったのです。
発音、言葉の持つメロディーは、文法や読解の方にどうしても重きを置きやすい外国語の勉強ですが、本当はとても大切なものです。けっしてないがしろにしてはいけないのですが、ここを勉強するための手段は、残念ながら今の所あまり知られていません。私がシューベルトの歌が好きだったことが幸いして、私のドイツ語はシューベルトの歌からこの学びにくい部分を鍛えてもらえたのです。
シューベルトによって歌に変わった詩は、ただ言葉として読んでいる詩の何倍も詩との結び付きを深めてくれました。詩は理解よりも言葉の響きから何かを感じなければならないものです。しかし外国語を感じるのはほとんど不可能です。言葉で感じられるのは母国語だけですから、外国語を感じられるようにするには想像を絶する、とんでもないことをしなければならないわけで、私の場合はそれがシューベルトの歌を歌うことでした。シューベルトの歌は、音楽として優れているだけでなく、言葉の学習にとってとんでもないことに属するものなのです。
ゲーテ、シラー、ノヴァーリス、というドイツを代表する詩人の詩は、ドイツ語が母国語でないものにとっては意味を汲み取るのが精一杯で、詩情、詩の中に込められている意志にまでたどり着くことは容易ではなく、この容易でないところを私はシューベルトの歌に助けられたのでした。シューベルトを歌っているとき、詩の言葉の中に音楽が染み込んできます。音楽によって詩の言葉はそれまでのものとは別のものに変わっています。
音楽に生まれ変わった詩の言葉は、特にシューベルトの歌の場合は他の作曲家の歌に比べて、詩が音楽に翻訳されたものと言ってよい、一等品です。詩は他の言葉に翻訳され得ないものです。詩を愛する人ならこのことは百も承知のことです。ある言葉で書かれた詩を他の言葉に移し替えた途端、おいしいところが失われてしまいます。しかしシューベルトの手にかかった翻訳は、言葉同士の翻訳のまどろっこしさを払拭して、輝き始めるのです。
シューベルトの歌は、ただ詩が綺麗なメロディーに乗って歌われるという平坦な作業ではなく、言葉の音楽への翻訳です。しかも名訳です。音楽と言葉という似ていながらもそもそも別のものが、歌の世界で幸せをかみしめながら出会うのです
音楽で言葉を補佐できたのはシューベルトの大変な才能です。言葉が主で音楽が補っているのです。大抵は逆のことになってしまいます。詩の言葉に音楽を上乗せしてしまいます。少しキツ言い方になりますが、詩の言葉に音楽というペンキを塗ってしまうのです。音楽が暴力的に関わってしまいます。これでは詩の言葉を音楽に翻訳したことにはならないのです。
世界のどこかで今日もシューベルトの冬の旅が歌われているでしょう。
詩人、ウィルヘルム・ミュラーの詩をその国の言葉に翻訳して朗読されたと想像してみてください。そこで、どんなに朗読が素晴らしくても、渦巻くような感動は生まれないでしょう。しかしシューベルトの音楽に翻訳された冬の旅はどうでしょう。この素晴らしい翻訳は聞き手の心に訴え、コンコンと湧き出ずる感動を呼ぶものなのです。
私はこの感動でドイツ語を学んだのでした。
2016年8月29日
谷崎潤一郎のエッセイ「陰翳礼賛」は幾つものヨーロッパの言葉に訳されていて、非常に評価の高い本です。ドイツでも根強いファンがいて、日本通を自負する人なら必ず読んでいる本です。坦々と日本の生活の様子を書いているのですが、電灯のなかった当時の日本と、電気で明るく照らしている西洋の生活とを対比しながら日本の美を谷崎節で語っています。若い世代の人たちの中には多少時代のズレのようなものを感じる人がいるかもしれませんが、今日読んでも新鮮なものが沢山ありますから、一読をお勧めします。
シューベルトの未完成交響曲を聴いていると、障子を通して部屋に差し込む光を思い出します。淡い、角のないまるみを帯びた光です。
日本人にはたまらない光です。
未完成交響曲と障子を通った光の間の共通性と親和力。
私には切っても切れない深い結び付きなのです。
ドイツの音楽好きの友人何人かとシューベルトの話をしていて気がついたのは、彼らはシューベルトのこの曲に、というよりシューベルトそのものに全く焦点があわないということでした。更に驚いたのは未完成交響曲を聴いたことのある人が、この曲を暗い音楽と感じていることでした。
未完成交響曲は暗い音楽なのです。私はそんな風にこの曲を聴いたことがありませんでしたから、まさに驚きでした。
何が言いたいのかわからないから暗いのだという友人もいました。どこが暗いのか知りたくしつこく聞いて行くうちにわかってきたのは、この音楽の輪郭がはっきりしないと言うことでした。音楽に輪郭がないのは致命的だと言われました。
西洋の音楽はそう言われてみれば確かに一輪郭を持った音楽です。光を思いっきり当てとにかくコントラストをつけて、輪郭だけははっきりさせなければ気が済まないのです。
はっきりしたコントラストが彼らのこころを落ち着けるためには必要だということなのでしょう。
2016年8月28日
この曲はシューベルトの代表作です。シューベルトといえばこの曲がすぐ浮かんでくるでしょう。昔のシューベルトの映画のタイトルも、未完成交響曲でした。
私もこの音楽にシューベルトを感じます。シューベルトらしさ、シューベルトの本質というそよそよしい言い方ではなく、シューベルトをです。
最近では、グレートと呼ばれているハ長調ではなく、この曲がシューベルトの最後の交響曲とみとめられていますからシューベルトが到達した境地のひとつとみなしてよいものです。
私がこの曲の特徴の一つだと考えているのは、この曲は素人のオーケストラが演奏してもそれなりに聞けることです。細部を見ればあらっ削りだったりして、聞きづらいところがあるのですが、それで音楽としてだめなのかというとそんなことはないのです。
逆に一流の指揮者で一流のオーケストラで聞いても、何か物足りないのです。物足りないだけでなく、白々しく感じることもあります。
上手下手ということから逸脱しているのが未完成交響曲だということです。
こんなことは他の音楽ではあり得ないことです。プロがうまくて素人が下手なのです。ところが未完成だけはそうではないのです。
もちろん、どうしてかと色々考えてきました。そのことで他の人の意見も聞きたいと持ちかけるのですが、私ほどの情熱でこの曲を聴いている人は少なく、いつも空振りです。
今の時点ではどうしてそんなことが起こっているのか、わかりません、と言っておきます。
ただこの曲のそこのところに気がついてからは、上手というのが落とし穴ですらあるのだとわかったことです。衒いと驕りという落とし穴です。
みんな努力して上手になろうとしているはずです。技術が問われる範囲では、有効な考え方ですが、技術を超えた世界もあるのですから、上手になることで手に入れられるものには限界があるということになります。結論をいうと、形のあるものに関しては上手がものを言うということです。例えば、素人が縫った洋服は着られたものではありません。やはり優秀なテーラーに縫ってもらいたいものです。
しかし人生を上手に生きるというのはどういうことかと考えてみると、答えは無数にあるはずです。出世して有名になり、金持ちになることを多くの人が憧れていますが、形として見える人生を見ているわけで、無数の可能性の一つに過ぎないものです。
そしてそれが必ずしも幸せへの道ではないということも皮肉なことです。
人生って未完成交響曲のようなものではなのか、そんな気がしています。
下手な人生にも味があるものです。