シューベルトの未完成交響曲 その二 

2016年8月28日

この曲はシューベルトの代表作です。シューベルトといえばこの曲がすぐ浮かんでくるでしょう。昔のシューベルトの映画のタイトルも、未完成交響曲でした。

私もこの音楽にシューベルトを感じます。シューベルトらしさ、シューベルトの本質というそよそよしい言い方ではなく、シューベルトをです。

最近では、グレートと呼ばれているハ長調ではなく、この曲がシューベルトの最後の交響曲とみとめられていますからシューベルトが到達した境地のひとつとみなしてよいものです。

 

私がこの曲の特徴の一つだと考えているのは、この曲は素人のオーケストラが演奏してもそれなりに聞けることです。細部を見ればあらっ削りだったりして、聞きづらいところがあるのですが、それで音楽としてだめなのかというとそんなことはないのです。

逆に一流の指揮者で一流のオーケストラで聞いても、何か物足りないのです。物足りないだけでなく、白々しく感じることもあります。

上手下手ということから逸脱しているのが未完成交響曲だということです。

こんなことは他の音楽ではあり得ないことです。プロがうまくて素人が下手なのです。ところが未完成だけはそうではないのです。

もちろん、どうしてかと色々考えてきました。そのことで他の人の意見も聞きたいと持ちかけるのですが、私ほどの情熱でこの曲を聴いている人は少なく、いつも空振りです。

今の時点ではどうしてそんなことが起こっているのか、わかりません、と言っておきます。

 

ただこの曲のそこのところに気がついてからは、上手というのが落とし穴ですらあるのだとわかったことです。衒いと驕りという落とし穴です。

みんな努力して上手になろうとしているはずです。技術が問われる範囲では、有効な考え方ですが、技術を超えた世界もあるのですから、上手になることで手に入れられるものには限界があるということになります。結論をいうと、形のあるものに関しては上手がものを言うということです。例えば、素人が縫った洋服は着られたものではありません。やはり優秀なテーラーに縫ってもらいたいものです。

しかし人生を上手に生きるというのはどういうことかと考えてみると、答えは無数にあるはずです。出世して有名になり、金持ちになることを多くの人が憧れていますが、形として見える人生を見ているわけで、無数の可能性の一つに過ぎないものです。

そしてそれが必ずしも幸せへの道ではないということも皮肉なことです。

人生って未完成交響曲のようなものではなのか、そんな気がしています。

下手な人生にも味があるものです。

 

 

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