春の大雪に思うこと

2016年4月29日

四月二十五日シュトゥットガルトは雪に見舞われました。気温は二度。冬の到来でした。

その前は二十度を越えるほどでしたから半袖姿も見受けられたのに、雪の中、道行く人たちはオーバーにマフラーの冬姿に変わっていました。春もそろそろ半ばに来て、これから夏に向かうという矢先の雪でした。

予定通りに、一年を季節に沿って移行させない自然と、予定通りに物事を見ようとしてしまう人間の間にはズレがあります。自然は間違っていると口にすることはないですが、平年に比べると何度高いとか、低いとかは言うので、どこかで自然の過ちを指摘しているようなものです。自然と向かう人間は自然の間違いを見つけようとするし、人間が国家というものに属してしまうと相手の国の間違いを指摘するし、人間が宗教に属すると他の宗教が野蛮に見えてくるしという具合です。自分以外のところに間違いを見つけるのが大好きなようです。

さて、この先はどうなるのでしょうか。

間違いを指摘できるものはまだあるのでしょうか。もしあるとすれば、最後の切り札は神的存在です。ところがこの存在に向かって間違っていると言うのは勇気がいるものでなかなか言えるものではありません(神は死んだと言った人はいましたが)。

へそ曲がりなので、神的存在の間違いを見つけたくなりました。ただそこでの間違いは私たちの犯す間違いとは違うものかもしれないということは承知の上でです。

一体全体そういう存在も間違うのでしょうか。神的存在=絶対ということになれば、その存在は間違うことはなく、逆に不信を抱くものが間違っていることになり罰せられるでしょう。しかし絶対というのは人間の頭が勝手に作った概念なので神的存在を便宜上そういうものと説明しているに過ぎないのです。神的存在がどのような存在なのかは今の時点ではわかりませんが、ただ、私は、絶対でないことだけは確かだと思っています。

ここでひとまず詰将棋の手を休めます。

 

翻って、間違いを探す人間が却って間違っているのではないかと考えてみました。実は、この些細な思いつき、ありがたいことに私をとても楽にしてくれました。間違いは、善悪とは別で、埃のようなものでどこにでもあり、宇宙に遍満しているので、神的存在の領域でも間違は存在すると言っいいと思います。そう言ったところで神的存在が傷がつくことはないはずです。神的存在の偉大さは、人間の頭が勝手に作った絶対というところにあるのではなく、神的存在の偉大なところは自らの間違いに気付けることです。そこに神的存在の証を見たいのです。

自らの間違いに気付くというのは、間違っていることを肯定することです。と同時に今までを否定しなければならなくなります。肯定したくないものを肯定し、否定したくないものを否定しなければならないので、肯定する力と否定する力とが矛盾を呈しながら激しくぶつかり合います。尋常でないことが起こるはずです。もしかするとビックバンほどの爆発的なことがです。

しかしそれが創造には欠かせないものだと私は思います。

神的存在も定住し続けるのではなく変化します。変化し続けるのです。変化を進化と呼びたがるのは人間の奢りかもしれません。基本的には変化で十分です。

間違いに気付くこと、そこに変化の源があって、ついでに言うと、それが宇宙に偏在する動きのそもそもの始まりなのでしょう。

存在するものは変化しながら動いている、いや、創造しながら動いている。神的存在も人間存在も。そう言っていいと思います。 

グレン・グールドと俳句

2016年4月27日

グールドについては言い尽くされているので、ここで私が言おうとしていることもすでにどこかで誰かが言っているかもしれません。

私が書きたいことは、グールドは俳句にとても近い人だということです。

俳句は今世界的にブームで、英語で俳句どころか、私たちに馴染みのない言葉で捻られた俳句というのも珍しいものではなくなっています。

ところが俳句とは言っても、私は外国語としては英語とドイツ語の俳句しか読めませんが、17の音節で詩を書いているだけというものも多く、俳句からは遠いいものを感じています。このところを、外国語で俳句をやっている人たちにいうと傷つけてしまうので、大きな声では言えないのですが、やはり事実ですから、言っておきます。

俳句は日本文化を集約しているところがあって、そこを通らないと俳句の精神にたどり着かないのです。では、どこが、どういうところが日本文化なのかということですが、説明しないことです。

西洋は説明と言い訳が文化の中軸ですから俳句的に説明なしの世界で生きることは不可能です。日本には俳句の他に和歌もあって、和歌の方は自分が中心にきて、説明的なところがあるので、私は西洋人には和歌の方がずっと相応しいものだと思うのですが、困ったことに彼らは俳句がこよなく好きなのです。もしかしたら説明しないことへの憧れではないかと思っています。

西洋と東洋、特に日本というのはそう簡単に出会うことはできないもので、私などはもう30年以上この問題で頭を悩ませているのですが未だに解決の糸口すら見つかっていないほどです。西洋的世界は彼らの持っている悪い癖が違う文との出会いを妨げています。一つは自分の考えで相手を整理してしまうことです。相手を理解するとは自分で自分の都合のいいように説明することとは違うものです。もう一つは、すぐに自分が正しいという立場に立ってしまいますから、自分で作った俳句にすぐに満足してしまうことです。もちろん日本にも責任の一端はあります。西洋を崇めすぎた反省か始まってほしいものです。

 

私がグールドに着目するのは彼が西洋という枠をこえたところがあると思っているからです。

彼を有名にしたのはバッハの、それまで弾く人がいなかったゴールドベルク変奏曲の録音です。グールド以降ほとんどのピアニストがこの曲を弾くようになっています。グールドの演奏は型破りです。だからと言って奇をてらったものではなく、それまでヨーロッパ人が知らなかったものだったのかもしれません。説明とか解釈からではないところから、まっすぐに音楽に向かっています。あまりに生々しいバッハで当時は気狂い扱いすらされたほどです。しかしレコードの売り上げは上々で全世界でグールドのゴールドベルク変奏曲は向かい入れられたのです。今日でも彼への評価は二分していますが、当時は今以上に極端に意見が分かれていました。

先日グールドの弾くシベリウスとブラームスを聞きました。いつもながらにとても生々しい演奏で、改めてグールドの偉大さを見直してしまいました。その時の生々しさが、説明抜きの音楽で今を生きているグールドと俳句を結びつけたのでした。

俳句は生々しいものです。こんなものは世界に二つとありません。俳句の面白さは説明があってはならず、しかも今を詠むことで、そのために季語があるのだと考えています。厄介なハードルだと季語を恨むこともありますが、そこを越えなければならず、そこを越えて流れている時間の中で今を浮かび上がらせるのが俳句です。

説明しない今。この独特な自分と時間との関わりがグールドの演奏にもあるように思えて仕方がないのです。

西洋というのか、西洋の得意な知性というのか、それは過去の出来事の整理に追われていますから、俳句がそこにやってきても深く染み付いたくせですから説明型の俳句になってしまいます。そんなのは俳句と形は似ていても中身は俳句に似ても似つかないものです。

グールドの奇行?は有名です。彼の独特な生活習慣は天才ということで社会的には認められていますが、やはり奇行です。夏でもコートを着て帽子をかぶりマフラーを首に巻いて手袋をしているのです。どこを取っても普通ではなく、精神病患者とみている人もいるくらいです。しかし西洋人が西洋を越えるためには、大きな壁があるので彼くらいの奇行が普通にならないとうまく越えられないのではないか、そんな気がするのです。普通の西洋人のままで俳句に向かっても、西洋文化の延長に俳句はないですから、そこには、悲しいかな、説明に走り今という生々しさは生まれてこないのです。だからと言って私は西洋が俳句に夢中になっていることを悪いことだとは思っていません。それどころか俳句が、俳句に近づこうとすることが、彼らの持っている壁を壊す大きな力になってくれるかもしれないと期待しているのです。これは人類の未来にとって祝福すべきことなのかもしれません。

セゴビアのブラテロと私、伴奏という豊かな世界への誘い

2016年4月21日

1930年代にクラシックギターのレパートリーにバッハの作品が登場しました。

スペインのギターリスト、アンドレ・セゴビアがそれまではスペインの民族楽器の域を出なかったギターで、無伴奏ヴァイオリンのバルティータの二番、二短調の中のシャコンヌを弾いてクラシック音楽の世界の常識を覆したのでした。ヴァイオリンの作品の中でも難しさにかけて至難の曲として知られているシャコンヌです。それをギターで弾いたのですから、ギターのような(低俗な?)楽器でヴァイオリン曲の至宝を汚すのかという意見もあったようです。

だからと言ってセゴビアがクラシックギターを確立したということではなく、クラシックギターというジャンルはすでにクラシック音楽世界で存在していて、例えばメンデルスゾーンはギターを「小さなオーケストラ」と呼んでいましたし、ヴァイオリンの超絶技巧の持ち主のパガニーニがギターを弾いたので、ギターとヴァイオリンの合奏曲がありますし、バッハはリュートの演奏者でもありましたからリュートのための曲を書いていてそれをギターで弾くこともありましたし、バロック時代はフランスでも随分活躍した形跡がありますしと、ギターは音楽の歴史の中でとりあえずは認められた楽器だったのですが、モーツァルト、ベートーベン、ショパンといったクラシックの人気作曲家のギター曲はなく、加えてピアノという万能楽器が全盛の中、ギターは技巧的にも劣るし音量も少ないということもあって、クラシック音楽の愛好家たちの本流からは離れた存在になってしまっていたのでした。

セゴビアは過小評価されていたギターを音楽の大舞台に載せたこと、若手の育成に当たれたことを大きな仕事とみなしていますが、ギターをフラメンコから解放したことも強調しています。さらにギターを女性を相手としたものからも解放したとも言っているのです。どういうことかというと、昔は、好きになった女性を窓の下から呼びかけ、思いを告げるのにギターが多く使われたのでした。そのことを言っています。実はこれがセレナーデの本来の役割で、ちなみに明治時代のセレナーデの日本語訳は「情婦窓下之曲(じょうふまどしたのきょく)」でした。驚くべき名訳です。そんなギターがヴァイオリン曲の至宝シャコンヌを弾いてしまったのです。

セゴビアはその後もバッハの他の曲を積極的に編曲しながら精力的にクラシックギターの新たな地位の確立のためにヨーロッパ、アメリカそして日本へと演奏活動を行いました。そしてヘンデル、メンデルスゾーン、シューベルト、ブラームス、ショパン、ドビッシー、ムソルグスキーなどの曲を自ら編曲して演奏する傍ら、作曲家から献呈されたのでした。その一人に、イタリアの作曲家カルテルヌオーヴォ・テデスコがいます。彼はスペインのノーベル文学賞に輝いた詩人ヒメネスの「プラテロと私」に目をつけ、その中から十の詩を取り上げ、その朗読のバックグラウンドための曲を作りセゴビアに捧げ、それはセゴビアの演奏で初演されました。そしてしばらくしてレコード録音がなされました。今から45年前にレコードで初めて聴いてから今日に至るまで飽きることなく聞き続けている、好きをはるかに通り越した大好きな作品です。もちろんセゴビアの演奏だからです。深々とした広がりのある演奏で作曲家自身もセゴビアの演奏に大変に感動した様子がレコードのジャケットの中で伝えられています。セゴビアの数ある演奏の中でも特筆すべきものだと私は思っています。

「ブラテロと私」を聞きなが感動するのは二つの点です。一つは、彼は本当に一人で弾いているのだろうかと疑ってしまうほどの音質の豊かさです。ある時は力強く、ある時は母のように優しく、ある時は近くから、ある時は遠くからと縦横無尽、自由自在に音楽が奏でられ、無限の広がりを聞くことができます。この広がりはセゴビアの演奏の基本スタイルに通じるものですから、他の演奏でも聞かれるのですが、この作品ほどのしなやかさはなかなか聞かれないので、「プラテロ私」という作品が持つ特徴が、セゴビアのいいところをたくさん引き出すことに成功したと考えています。

もう一つの点は、この曲が本来は詩の朗読のバックグラウンドためのもの、つまり伴奏として作られているので、ソロで演奏するのためではなく伴奏のための音楽だという点です。ソロと伴奏は全く違うもので、この曲には伴奏独特の広がりがあって、簡単にいうと「主張しない音楽の魅力」なのですが、主張しないことで却って広がりが生まれているのです。もちろんセゴビアがやったように詩の朗読なしで、ソロとして演奏されることを作曲家自身が歓迎しているのですが、この音楽の根底には伴奏という役割を意識したものがしっかり生きていて、そこから生まれる包み込むような懐の深さがあるのだと睨んでいます。そしてそこをセゴビアは感じ取り、独奏で演奏しながら(セゴビアは一度も詩の朗読と共演していません)伴奏であるという難しい二面性を物の見事に実現したのです。

 

伴奏が持つ妙味、この世界の素晴らしさにはすでにシューベルトの歌の伴奏で気づかされていました。シューベルトの音楽はそもそも自己主張をしない音楽で、彼は一番言いたいことをいつもピアニッシモで語ります。その彼にして初めて歌曲の伴奏の世界が花開いたのでした。それ以前にも歌曲はありましたが、伴奏はいかにも伴奏という単純なものでした。またその後も歌曲は作られたのですが、伴奏がソロの作品のようになってしまい、伴奏の持つ持ち味が失われてしまいました。歌の伴奏は歌を包み込まなければなりません。シューベルトの伴奏は絶妙です。歌の伴奏は歌と一つにならなければならないため、ソロビアニスト的なパフォーマンや主張は禁物です。ソロピアニストとして知られている幾多の有名なピアニストが必ずしも伴奏者としても優れているのかというとそんなことはないのです。私の今までの経験からいうと、優秀な独奏者には往々にして勇み足のような、で過ぎたところが目立ち、歌とのバランスを台無しにすることが多いようです。優れた伴奏は演奏技術の問題ではないのです。独奏には高度の技術と技巧が求められます。ですから伴奏ぐらいはお茶の子さいさいと考えがちですがそこが落とし穴です。伴奏には、自分を主張しないで相手を包み込み、相手と一つになる努力が欠かせません。そのため独奏の時に必要な「主張する技術」が裏目に出てしまいます。伴奏には人間的なセンスが求められているということです。音楽だけの話ではなく、人間生活全般について言えることです。自分を目立たせるのではなく、相手を引き立てるなんて、相当修行のできた人でないとできないことです。

同じことが音楽の伴奏にも言えるのです。