セゴビアのブラテロと私、伴奏という豊かな世界への誘い

2016年4月21日

1930年代にクラシックギターのレパートリーにバッハの作品が登場しました。

スペインのギターリスト、アンドレ・セゴビアがそれまではスペインの民族楽器の域を出なかったギターで、無伴奏ヴァイオリンのバルティータの二番、二短調の中のシャコンヌを弾いてクラシック音楽の世界の常識を覆したのでした。ヴァイオリンの作品の中でも難しさにかけて至難の曲として知られているシャコンヌです。それをギターで弾いたのですから、ギターのような(低俗な?)楽器でヴァイオリン曲の至宝を汚すのかという意見もあったようです。

だからと言ってセゴビアがクラシックギターを確立したということではなく、クラシックギターというジャンルはすでにクラシック音楽世界で存在していて、例えばメンデルスゾーンはギターを「小さなオーケストラ」と呼んでいましたし、ヴァイオリンの超絶技巧の持ち主のパガニーニがギターを弾いたので、ギターとヴァイオリンの合奏曲がありますし、バッハはリュートの演奏者でもありましたからリュートのための曲を書いていてそれをギターで弾くこともありましたし、バロック時代はフランスでも随分活躍した形跡がありますしと、ギターは音楽の歴史の中でとりあえずは認められた楽器だったのですが、モーツァルト、ベートーベン、ショパンといったクラシックの人気作曲家のギター曲はなく、加えてピアノという万能楽器が全盛の中、ギターは技巧的にも劣るし音量も少ないということもあって、クラシック音楽の愛好家たちの本流からは離れた存在になってしまっていたのでした。

セゴビアは過小評価されていたギターを音楽の大舞台に載せたこと、若手の育成に当たれたことを大きな仕事とみなしていますが、ギターをフラメンコから解放したことも強調しています。さらにギターを女性を相手としたものからも解放したとも言っているのです。どういうことかというと、昔は、好きになった女性を窓の下から呼びかけ、思いを告げるのにギターが多く使われたのでした。そのことを言っています。実はこれがセレナーデの本来の役割で、ちなみに明治時代のセレナーデの日本語訳は「情婦窓下之曲(じょうふまどしたのきょく)」でした。驚くべき名訳です。そんなギターがヴァイオリン曲の至宝シャコンヌを弾いてしまったのです。

セゴビアはその後もバッハの他の曲を積極的に編曲しながら精力的にクラシックギターの新たな地位の確立のためにヨーロッパ、アメリカそして日本へと演奏活動を行いました。そしてヘンデル、メンデルスゾーン、シューベルト、ブラームス、ショパン、ドビッシー、ムソルグスキーなどの曲を自ら編曲して演奏する傍ら、作曲家から献呈されたのでした。その一人に、イタリアの作曲家カルテルヌオーヴォ・テデスコがいます。彼はスペインのノーベル文学賞に輝いた詩人ヒメネスの「プラテロと私」に目をつけ、その中から十の詩を取り上げ、その朗読のバックグラウンドための曲を作りセゴビアに捧げ、それはセゴビアの演奏で初演されました。そしてしばらくしてレコード録音がなされました。今から45年前にレコードで初めて聴いてから今日に至るまで飽きることなく聞き続けている、好きをはるかに通り越した大好きな作品です。もちろんセゴビアの演奏だからです。深々とした広がりのある演奏で作曲家自身もセゴビアの演奏に大変に感動した様子がレコードのジャケットの中で伝えられています。セゴビアの数ある演奏の中でも特筆すべきものだと私は思っています。

「ブラテロと私」を聞きなが感動するのは二つの点です。一つは、彼は本当に一人で弾いているのだろうかと疑ってしまうほどの音質の豊かさです。ある時は力強く、ある時は母のように優しく、ある時は近くから、ある時は遠くからと縦横無尽、自由自在に音楽が奏でられ、無限の広がりを聞くことができます。この広がりはセゴビアの演奏の基本スタイルに通じるものですから、他の演奏でも聞かれるのですが、この作品ほどのしなやかさはなかなか聞かれないので、「プラテロ私」という作品が持つ特徴が、セゴビアのいいところをたくさん引き出すことに成功したと考えています。

もう一つの点は、この曲が本来は詩の朗読のバックグラウンドためのもの、つまり伴奏として作られているので、ソロで演奏するのためではなく伴奏のための音楽だという点です。ソロと伴奏は全く違うもので、この曲には伴奏独特の広がりがあって、簡単にいうと「主張しない音楽の魅力」なのですが、主張しないことで却って広がりが生まれているのです。もちろんセゴビアがやったように詩の朗読なしで、ソロとして演奏されることを作曲家自身が歓迎しているのですが、この音楽の根底には伴奏という役割を意識したものがしっかり生きていて、そこから生まれる包み込むような懐の深さがあるのだと睨んでいます。そしてそこをセゴビアは感じ取り、独奏で演奏しながら(セゴビアは一度も詩の朗読と共演していません)伴奏であるという難しい二面性を物の見事に実現したのです。

 

伴奏が持つ妙味、この世界の素晴らしさにはすでにシューベルトの歌の伴奏で気づかされていました。シューベルトの音楽はそもそも自己主張をしない音楽で、彼は一番言いたいことをいつもピアニッシモで語ります。その彼にして初めて歌曲の伴奏の世界が花開いたのでした。それ以前にも歌曲はありましたが、伴奏はいかにも伴奏という単純なものでした。またその後も歌曲は作られたのですが、伴奏がソロの作品のようになってしまい、伴奏の持つ持ち味が失われてしまいました。歌の伴奏は歌を包み込まなければなりません。シューベルトの伴奏は絶妙です。歌の伴奏は歌と一つにならなければならないため、ソロビアニスト的なパフォーマンや主張は禁物です。ソロピアニストとして知られている幾多の有名なピアニストが必ずしも伴奏者としても優れているのかというとそんなことはないのです。私の今までの経験からいうと、優秀な独奏者には往々にして勇み足のような、で過ぎたところが目立ち、歌とのバランスを台無しにすることが多いようです。優れた伴奏は演奏技術の問題ではないのです。独奏には高度の技術と技巧が求められます。ですから伴奏ぐらいはお茶の子さいさいと考えがちですがそこが落とし穴です。伴奏には、自分を主張しないで相手を包み込み、相手と一つになる努力が欠かせません。そのため独奏の時に必要な「主張する技術」が裏目に出てしまいます。伴奏には人間的なセンスが求められているということです。音楽だけの話ではなく、人間生活全般について言えることです。自分を目立たせるのではなく、相手を引き立てるなんて、相当修行のできた人でないとできないことです。

同じことが音楽の伴奏にも言えるのです。 

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