スーフィーの踊り

2016年1月8日

 先日イスラム教に伝わる旋回舞踏旋を見る機会がありました。700年以上の昔から伝承されているそうです。とても不思議な体験でした。トルコでは1923年以降、政治的理由で年に一度しか公に踊れなくなっているということでした。スフィーはイスラム神秘主義というふうに呼ばれ、一般のイスラム教とは相容れないものがあるからだということです。

スフィー、旋回舞踏と検索すればyoutubeで見られますからぜひ見ていただきたいと思います。

長いスカートをはいた僧侶たちが白装束で回り続けます。会場に登場する時は、白装束の上から黒のマントを羽織っていますが、踊りに入る時に脱ぎ、踊りが終わると再びマントを羽織って退場します。

旋回舞踏に参加する僧侶たちは1001日の厳しい修行を終えた人たちに限られています。

この1001日というのは、聞き捨てならない日数です。もしかするとアラビアに伝わる千夜一夜物語につながるのではないかとふと思いました。

旋回舞踏はただ回るだです。それは地球が回り、惑星が回り、太陽も回り、銀河系も回ることと同じ原理だということです。

確かに、宇宙はすべて回っています。その回転を正確に計算することはできても、なぜ回っているのかという質問には誰も、先端の科学者でも答えられないのです。

旋回舞踏だけでなく、盆踊りも、フォークダンスも基本的には回るものです。今日のコーラスはギリシャの時代にはコロスと呼ばれ、もともとは輪になって踊りながら歌ったものです。その時のリズムはヘクサメーターで、このリズムは呼吸と脈拍の比率から生まれたものと言われています。バラードも同じで、叙情詩を輪になって踊ったものです。こうしてみると踊りはすべて回るという基本からうまれ、回るというのは世界共通の運動と言えそうです。

僧侶たちは1日中まわっていられると聞きました。疲れないのだそうです。回る速度が絶妙だと思いました。早からず遅からずと、見ている私たちを巻き込んでしまうのです。まるで呼吸をしているようです。回る方向は時計と反対回りです。両手を広げ、右の掌は上を、左は下を向いています。上は天、下は地を表しています。

旋回舞踏のミソは、回りながら回っていないところを見つけることだそうです。旋回舞踏は基本的にはコマと同じですから軸は静止しています。静止している自分を感じられる僧侶たちは大きな力をそこからもらっているということでした。話を聞きながら仏経の不動心のことを思い出していました。

また、あの神秘的とも言える回転は読経と源を同じくしているのだと感じたことが何度かありました。まさにお経のテンポでした。早からず遅からず、言葉はわからなくても、お経を読む僧侶たちの声から生まれるリズムで私たちは別の次元を体験することができます。

読経は必ず経典を見て行わなければならないものです。キリスト教でも僧侶は聖書を読まなければなりません。これは宗教の違いを超えて共通したものです。旋回舞踏の経典は何んだろうと考えていた時、肉体が、僧侶たちが回転させている肉体が経典そのものだと言えるような気がしてきたのです。

一月六日に寄せて、三賢者からのブレゼント

2016年1月8日

一月六日はキリスト教文化圏では宗教的な祝祭の日です。

二つの言い伝えがこの日に重なっています。一つは三賢者が東方からやってきて、イエスの誕生をそれぞれがお土産を持参して祝福した日。もう一つはこの日に洗礼のヨハネがイエスを洗礼したことになっていますから、イエス洗礼の日です。

さらにもう一つ付け加えると、その日をもってクリスマスイヴから始まったクリスマスという行事は終了します。クリスマスは1日だけのことではなく、聖なる12夜というひとくくりのあるお祭りなのです。

余談ですが、こんな大切な日なのに、この日が休日になるかどうかは、ドイツの場合州の判断によって異なるのです。南ドイツのカソリック系の州では休日ですが北ドイツのプテスタント系の州では何もなかったかのように普通の日なのです。

 

私はこの日に考えることが一つあります。去年も一昨年も似たようなことを、そのとき近くにいた人たちと話した覚えがあります。

ブレゼントってなんなのかということです。贈りものをするというのは本当は、現代人がプレゼントごっこをしているレベルとは違うと思うのです(プレゼントにふさわしいアイテムを揃えたブティクも随分あります)。

もう少し深い意味があるだろうと思っています。

存在への感謝があって初めて行われると考えています。少し大袈裟でしようか。自分が存在していることへの感謝と今目の前にいる人が存在していることへの感謝があってプレゼントが生まれたのではないか、そんなふうに考えるのです。

しかし社会的な処世術の方便としてプレゼントは形を変えながら発展してきたように思います。実に微妙な入り組んだ形を見ることができます。高級時計の売れ具合でその社会の経済の様子を測定することもできるとある統計の専門家から聞いたことがあります。闇プレゼント、賄賂です。

 

英語ですからpresentです。元々の意味は「目の前にある」「ものを目の前に差し出す」。発音やアクセントの位置が変わるものの基本的な意味は同じところにあると思っています。

文法では現在形の意味で使われ、勉強会や会議などではプレゼンテーション、人前で自分の研究を発表することですが、これもプレゼントと関係しています。

 

文法の現在形というのに焦点を当ててみます。

現在というのは今ということです。現在形は今のことを述べ、描写しているのですが、よく見るとそうとも限らないようです。

行きつけのパン屋さんは朝6時からやっているというとき、現在形が登場します。毎日、定休日以外は、6時にお店が開くといっているのですから、現在形は「いつも」ということでもあるのです。

今(現在)といつも(永遠)とは同じ言い方が使われるのです。

 

人間の存在、つまり生きていると感じることは、言葉で説明されて納得の行くものではないと思っています。

行動として現れなければ意味をなさないことだと思うのです。何かの行為がそこになければ机上の空論です。自分が存在しているのは自分だけの力ではない、今目の前にいるものの存在によっていると考えてはどうでしょうか。それに感謝することがブレゼントとみてはどうでしょうか。

プレゼントしたくなる人というのがいます。友達というのはそういう人のことをいうのかもしれません。

 

 

 

数学と人生、そして抽象化とテレパシー。 その二

2016年1月6日

はじめに言葉ありき。よく耳にする言葉だと思います。ヨハネ福音書の冒頭にあるものです。

ここで「言葉」となつているのは「ロゴス」という古典ギリシャ語を翻訳したものです。

聖書がマルティン・ルターによってラテン語からドイツ語に翻訳された時、ロゴスは言葉 Wort(英語のword)となって、それを日本語でも周到したものです。

ロゴスの意味は多岐に渡りますから、「言葉」と訳すのはとりあえずは正しいのですが、何か物足りません。少し大袈裟かもしれませんが、数学と置き換えてもいいし、思考力と言い換えてもいいし、あるいはアイディア、想像力でもいいのです。私は最近秩序というのもロゴスではないかと考えるようになっています。

ロゴスを言葉という意味に限って理解するようになって、その後の西洋キリスト文化に相当影響したに違いありません。なんでも言葉で言えるという言葉至上主義はその一つの弊害です。ついには神様のことも言葉で説明できるのだと考えるようになってしまったのですから。これは間違いなく奢りであり勇み足です。

そんなことも踏まえて言葉を使うということを整理する必要があると思います。というのは言葉に頼りすぎた反動がこれからくるような気がするからです。

同時に言葉でない、言葉を超えたコミュニケーションについても考えてみたいと思います。

 

言葉が心をそのまま写している生き物だった時があるのではないか、そんな風に考えています。その時は言葉を使っている人間の心の中、思いが言葉にそのまま入り込んでいただろうし、それを聞いている他の人間は、またそれが本当か嘘かがすぐに分かったのだと思うのです。ということは、自ずと人間は真実しか言わなかった、少なくとも本当のことを言おうと努めた、そんな気がするのです。

いまは言葉は落ちぶれて、心を伝える道具というよりも嘘をつく為の道具になってしまいました。最悪は政治の世界です。

一般人の生活の中で言葉はどうかというと、嘘をつくことが同じように蔓延しているでしょうが、実生活で嘘ばかりついていると人間関係は政治のように力の比べっことは違い、人間味のあるものですからお互いの関係が作れなくなってしまいますから、こちらでは嘘の道具とまで落ちてはいませんが、固定概念、先入観念の道具であることは間違いありません。簡単にいうと洗脳の為に大活躍です。言葉によって洗脳された心は金縛りにあったようなものなのですが、本人は気付かないのです。そして洗脳された人ほど、これはこういうことだと偉そうに言うようになってしまいます。

言葉の命を取り戻す必要を感じるのです。しかしどうしたらいいのでしようか。

言葉は常に意味を持っています。その意味は大抵一つのことを言おうとするのです。それによって作られてしまう固定観念、先入観念から解放しないといけないのです。つまり言葉から一つの意味だけでなく、幾つもの意味を汲み取るようにすればいいのです。意味は大抵一つの立場から決められますから、物事は色々な見方ができるのだと知ることが大事になってきます。

これからの時代は、一つにこだわらない余裕、つまり遊びが必要だと言えると思います。遊び心を開発して行けば、固定観念、先入観に悩まされることはなくなります。

言葉に囚われた知的世界の常識からすると遊ぶときにも規則がつきものですが、本来遊びは規則なんかに縛られていないもので、自由奔放なものです。さらに混沌としているカオスそのものです。かつて言葉がまだ生き物だった時には、今で言う文法のような規則に縛られることなどなかったのです。言葉は心そのものでしたから、とても感度が良く、そのまま相手に伝わったのです。言葉の感度が鈍ってから文法のようなものが必要になったのです。

そして心は海のようなものですから心そのものの言葉は流動的で四角四面の規則には治まらなかったのです。その時言葉はイメージに限りなく近いものだったのではないか、そんな気がします。 

イメージも流動的です。イメージの世界に入ろうとするならば、しなければならないことが一つあります。ただ一つ、混沌とした海の中を泳げるようになることです。その為には遊び心を持つしかないのです。イルカが水と戯れているようにです。イメージの海の中で遊ぶのです。

 

イルカの脳は人間の脳よりも発達しているという研究があります。大きさもはるかに大きく、さらにシワも多く深いのです。

ただ泳いでいるだけのイルカになぜそんな高級な脳が必要なのかと疑問に思う訳ですが、イルカはすでにテレパシーでの更新世界に生きているのではないかと言う報告もあります。

今人間たちは知性を極めて抽象化するところまで来た訳ですが、この抽象化のつぎの段階はイメージ化です。ただ抽象化かからイメージ化に行くには飛躍が必要ですから簡単には行きません。でもそこまでくればイルカのように海の中を遊びテレパシーで交信できるようになるのかもしれません。

イルカが人間より進化した動物だと言うつもりはありません。進化論というのも人間の思いついた奢りですから。

ただイルカの方が先に行っているところがあるのではないかそんな気がすることがあります。