2024年7月30日
オーケストラを聞きに行くといつもたくさんの楽器に驚かされます。基本的には弦楽器、管楽器そして打楽器に分類されるのですが、そこからさらに細分化されて色々な楽器が舞台に登場します。
どの楽器を演奏するのかは家庭環境や教育によって決まるところが多いのでしょうが、子どもの頃からやっていた楽器を成人してから別の楽器に変えることも意外と多く、人間が楽器を選んでいるだけでなく、楽器の方からやってくることもあったりします。そんな様子を見ていると楽器の演奏は人生の中の職業選択の様なものと言えるのかもしれないと思ったりします。
楽器は子どもの頃から始めないとものにならないと言うのはほぼ常識的に理解されているものですが、縁がなく楽器との接点を持たずに成人したものの、深いところで楽器を演奏できたらという願いを抱き続けている人は多いものです。しかしヴァイオリン系にしろピアノにしろ、成人してから始めるとなると手の骨が固まってしまっているためなかなか上達しないものです。
私は五十になった時にトロンボーンを始めました。トロンボーンでなくてもよかったのですが、とりあえずは金管楽器が吹いてみたくて人に相談したところ、私の歯並びの悪さからトランペットはだめ、ホルンもダメと言うとでトロンポーンとチューバに絞られました。トロンボーンを吹く人を知っていたこともあってトロンボーンを始めることになりました。この金管楽器は成人してから始めるのに向いているかもしれまん。
私はすでにギターとライアーを弾いていました。この楽器は和音が弾ける弦楽器です。私が切望したのは一音だけで音楽をする楽器でした。一音をどのように作り上げるのかを体験したかったのです。ギターもライアーも一音でメロディーを弾くことはできますが、和音を使わないで一音だけで弾くメロディーは何か物足りないところがあるものです。ところがトロンボーンではメロディーしか吹けないので、メロディーに全力投球します。全身全霊を込めて一音一音を吹くわけですが、その時生まれたメロディーは初めて体験する別格なものでした。一音の素晴らしさに開眼したと言えそうです。
話をオーケストラに戻すと、オーケストラと言うのは全員がそれぞれの一音を持ち寄って組み立てられています。そのことから、基本的にはオーケストラというのはバラバラなものなのです。バラバラな集団なのです。各自が自分の一音を持ち寄ってくるのですから、それだけではまとまることがないものです。演奏会の時に楽団員が登場して、各自が自分の楽器の音出しをするわずかな瞬間があります。この時にオーケストラのバラバラが如実に体験できます。
作曲家が楽譜にしたものを各パートがそれぞれに練習してリハーサルに臨むのですが、そこには指揮者がいてみんなをまとめてゆくことになります。指揮者というのは驚くほど見事にバラバラな楽器の集団をまとめあげます。ただ楽団員は訓練を積んだプロですから、楽譜があればそれぞれがお互いを聞き合いながら一つの作品を作ることはできるのかもしれません。そう言う演奏もありますから可能なものですが、指揮者がいて演奏すると言うのが今では常識になっています。実は指揮者は必要なのかそれとも無用の長物なのかは色々に論議されています。いずれにしろ、指揮者によって同じオーケストラで同じ演目を演奏したものを聞くと、違いが明らかですから、指揮者の存在は大きいと言っていいと思います。このオーケストラのバラバラがまとまって、一つの作品として演奏されるのを聞くと、生き物の誕生を目の当たりにする感じです。
グスタフ・マーラーは優れた指揮者でしたから、オーケストラのバラバラをよく心得ていた人でした。その彼が書いた交響曲はというと、オーケストラを知り尽くしているのでオーケストラの真髄が聞けてとても魅力的なものです。彼はそもそもオーケストラが持つバラバラを十分心得た上で、それを極力バラバラのままで一つの音楽作品にまとめ上げるからです。こんな人は今までいなかったのです。整然とまとまった交響曲に慣れている耳には、あまりに特殊なものに聞こえる様です。しかし一度マーラーの「バラバラな統一」といったものに魅了されると、何とも不思議な世界を体験することになります。バラバラと言う存在がこれほど魅力的なものなのかと言う感動です。
実はマーラーの音楽が好んで演奏される様になったのはまだ最近のことで、クラシック音楽の聴衆たちは、なかなか整理整頓された交響曲の枠から抜け出せずにいたからです。こんな説を唱える人がいます。マーラーが好んで聞かれる様になったのは、社会が今までの様に統制されたものではなく、バラバラになって複雑化し、混沌としてきたのと並行していると言うのです。マーラーは現代社会を反映している音楽と言ってもいいのかもしれません。バラバラをバラバラとして肯定するという新しい姿勢が、現代人をほっとさせ惹きつけるのかもしれません。
2024年7月24日
昔からよく聞いているYou Tubeにグルックのオペラ「オルフェウス」の中の有名なメロディーという曲のフルートとオルガンの演奏があります。「精霊の踊り」が有名で、それが単独で演奏されるることが多いですが、元々はこの曲と対になっているものですから、知らずのうちに多くの人が案外耳にしていると思います。
私が好んで聞いているのはロシアの女性フルート奏者、Svetlana・Mitryaykina、スヴェトラーナ・ミトリャイキナ?の演奏です。
Gluck-Melody from Orpheus for Flute and Organ Svetlana Mitryaykina
で検索してみてください。
この演奏の特徴は極端なスローテンポです。おそらく現代人のテンポ感覚からすると「遅すぎる」と感じる人のほうが多いかもしれません。紹介した友人の半数以上が「これじゃ音楽じゃない」とまで言う人がいたほどです。
私には逆にこのスローテンポが心地よいのです。あまり言葉にすると真実味が消えてしまうので、控えめに言うと、そこには次元の違う光の様なものが生きているのです。
この女性の演奏を初めて聞いた時、驚きと同時に喜びがありました。このテンポで聴きたかった、と言うのとようやくこのテンポに出会えたと言うものです。
何度も繰り返して聞きました。もう10年来のお付き合いですから、何回聞いたかわかりません。全然飽きないのです。それどころか半ば中毒にかかっている様で、また聞きたくなるのです。
そうしたある日また聞いていると、このテンポどこかで知っていると思ったのです。ゆっくり考える暇もなく「雅楽のテンポだ」と直感的に気づいたのです。現代人の生活のどこにもないテンポです。ですから遅すぎると言われてしまうのです。雅楽の現代における位置の様な感じです。
ドイツで雅楽を音楽付きの友人と聞いたことがあります。ゆっくり過ぎることがテーマになりました。昔の日本人はこんなテンポで生きていたんだろうけれど、現代のヨーロッパにこう言うテンポはどこを探しても見当たらないよ、と言われてしまいました。しかしこののんびりしたテンポに全然ストレスを感じないのは、事実です。雅楽のテンポは、頻繁に演奏された当時の人間の生活全体を反映しているものです。それは今と違ってゆったりした時間の流れの中にあって、のんびりとストレスなど知らずに人々は生きていたのだろう、と言うのです。
確かにそう言う見方もできるとは思うのですが、それは現代中心の、現代からしかものを見ていない反面的なもののように感じるのです。私が日本人で日本的感性を持っているからなのかもしれませんが、ヨーロッパの人たちとは何かが違うのです。
私は雅楽の中に生きているテンポに独特な光と言ったものを感じます。地上的な光ではなく異次元的な光です。敢えて言えば霊的な光です。霊の世界に音楽があるとすると、こんなテンポなのかもしれないと思ったりします。もちろん色々とあるのでしょうが、基本的にはこんなものではないかと想像します。雅楽と言う音楽、そこに流れるテンポはまだ人間が霊の世界のことを知っていた時の音楽でありテンポなのではないかと言う気がするのです。
今流行りのスピリチュアルというものではない、霊的なつながりの様なものです。まだ霊的世界と結ばれていたのかもしれません。そんな中で好まれていたのが雅楽だと思うのです。
先ほどのフルートの音は、とても息の長い演奏で、他で聞くことができないほどに異常な長さです。ロシアという民族の中にはどこか東洋的な、私たち日本人に通じる何かが生きているのではないかと思わせるような息遣いです。このフルートの音を聞いて、そのテンポの取り方に何か雅楽に通じるものがあると思うのは、決して唐突ではないと思っています。ロシアには東洋に通じる何かがあるのでしょう。ドイツの音楽家と話をしているときにロシアの音楽のことを「東洋の音」と言うことがあります。初めて聞いた時は流石にハッとしたのですが、よくよく考えると、ドイツから見ればしっかり東洋だと納得できるものがたくさんあることに気がつき、最近はあまり違和感なく受け入れています。
最近足を運んだ音楽会はどれも息の短いものばかりで、大急ぎで音楽をしているのです。音楽を聴いているのに却って体が疲れてしまいました。音楽の流れの中に自分を預けきれないもどかしさの様なものを感じていました。そんな時はあのフルートの音を聞きながら体に溜まった色々なものをほぐしてもらっています。雅楽を聞いてもいいのですが、ドイツに長いせいか、ロシアのフルート、スヴェトラーナの音から感じる東洋的な息の長さの方がしっくりする様です。
2024年7月24日
私はセンスを大切なものだと考えています。人を見るときはセンスがある人かどうかで見ています。もちろん物事を理解する時には知識や経験だけでなくセンスが必要なのです。
この言葉は辞書を捲るとわかるのですが、うまく説明されることのない言葉です。特殊な言葉の様です。したがって人に説明する時には難儀します。そもそも英語からの外来語ですからいっそうです。ちなみにドイツ語にこの英語のセンスにあたる言葉はなく、日本人以上に苦しんでいます。
若い時にこの言葉を知り、その意味をあのてこのてを使って調べたのですが、私が納得できるものには出会いませんでした。知り合いや先輩に聞いても的を得た答えには出会えませんでした。
センスを理解するにはセンスが必要なんだと自分で納得させてこの年まで生きています。
センスは生まれ持ったものだと思います。と言うことは先天的な才能、能力ということなのでしょうが、先天性というだけの説明では物足りないものです。窮屈でしっくり来ません。もっと余裕のある、膨らみを持ったのがセンスの様な気がしています。人生を包み込むような大きなスケールを感じています。
最近気がついたのですが、一芸は道に通じる、とか一芸は万芸に通じるという言い方がありますが、これは私が感じているセンスを理解する時に大いに役立つ様な気がしますので、この辺からセンスに迫ってみたいと思います。
一つの芸を極めると百の芸に通じると言うことです。私は直感的にわかった様な気がしてしまうのですが、少しほぐしてみたいと思います。
一つのことにこだわっていると、専門バカのような言い方をされがちですが、中途半端でなく極めると話は別の様です。別の次元というか別の地平線が見えてくるものです。高みに立ったものにしか知られない景色があるのでしょう。
そこに到達すると自分の芸のことばかりではなく他人の芸についても共感できるものがあるとわかるのです。自分を極めると他人が見えてくると言うことの様です。少しセンスに近づいた様な気がします。
センスがあるかないかの違いを一番感じるのは、芸事、芸術、物作りと言った分野ですが、知的に物事を理解すると言うのもセンスがものを言います。自然科学の世界で、数学や物理や天文学を極めた人は異次元の存在に見えます。独特のセンスでその道を極めたからなのでしょう。
センスがあるに越したことはないと思うのですが、今の時代「知的能力」が過大評価されていますから、センスは片隅に置かれています。実は頭がいいと言うこと以上のことが「センス」に恵まれているので大変残念です。頭がいい人は神経質になりがちですが、センスは繊細であっても神経質になる要素はありません。センスは磨いても知性のようにとんがってくるものではなく、一層しなやかになってゆくのです。
日本語ではセンスのない人のことをひとまとめにして「音痴」と言います。そもそもは歌うときに音程が取れない人のことを音痴というのですが、方向音痴、味音痴、色音痴、言葉音痴等々なんでも音痴という言い方で済ませています。もしかすると人生音痴というのもあるのかもしれません。
センスの話をするときに一番困ってしまうのは、このセンスはどの様にしたら磨けるのかと言うことです。私の声を例にとると、私の声は近くの人にも少し離れた人にも同じ様に聞こえると言う特徴と、録音が結構難しいと言う特徴が挙げらりれます。静かな柔らかい声ですからいつまでもいていられます。一見眠気が襲ってきそうですが、そんなことはなく決して眠めなんてことにはならないのです。この声も練習のしようがないのです。ちなみに私のライアーもよくにいています。却って練習が仇になります。練習は固めてしまうからです。と言うことは数多の発声法からは得られない特殊なものだと言うことです。たくさんの人から教えてほしいと言うことで声のワークなるものをしてきましたが、それだけでは足りないようで、個人的に教えて欲しいと言われるのですが、教えるものなんかないのです。ですから「声のセンス」を感じてそれを磨いて欲しいですと言っています。