意志という治癒力、意識魂の時代

2024年9月5日

今年六十三歳になる知り合いの女性が急に体調を崩してしまいました。そもそも治療オイリュトミストとして仕事をされていたかたでしたが、膵臓に炎症が起こっていると言うことと、胆石が見つかり、落胆していたのです。胆石の方は胆嚢と石を摘出するという手術を先日受けたところです。膵臓の方は原因がわからないままでいると言うことです。

すでに何人かのお医者さんを尋ねて相談してきたのですが、先日紹介されて尋ねた七十を少し過ぎだお医者さんのことを熱心に話してくれたのがとても印象的でそのことに少し触れてみたいと思います。

長年人智学の医療に病院で携わってきたと言うお医者様ですが、今はじ自宅を解放して、相談を受けるというスタンスで活躍していらっしゃると言うことです。私は実際にお目にかかっていないので、どの様な人なのか、どのような空間でお仕事をされているのか想像するしかないのですが、きっとこじんまりとやっていらっしゃるのだと思います。

患者である私の知り合いの女性が相談に行くと、患者である彼女を見つめ、人生の諸々のことをゆっくりと聞き出したそうです。その女性は病気を抱えお医者さんを訪ねたと言うことでしたが、その場に合わせると患者であり、今病気を持っていると言うことすら忘れてしまってしまったそうです。

今の時代は、もうお医者さんが患者を治すと言う時代ではなくなっていて、お医者さんと言うのは昔とは違って患者さんに寄り添って病気と付き合っていくと言うスタンスを考えていらっしゃるようでした。そして医者が病気を治すのではないのですとはっきりとおっしゃったそうです。病気を治すのは患者さん自身なのです。患者さんに病気を克服する意志があるかどうかと言う点が1番大事なところでお医者さんが与えてくれた薬を飲めば病気が治ると言う、そういう時代は過ぎたのだと言うことのようです。

その話しを聞いて、私自身が自分の再生不良性貧血と言う状況を、当時私をサポートしてくれたお医者さんと一緒に克服してきたことを思い出していました。私自身、病気の間に色々なセラピーを受けましたが、受けたほとんどのセラピーと言う世界が、私を素通りしていくようにしか感じられなかったので、その先生のお話を私の知り合いの女性から聞かされて何とも言えない納得をしてしまったのです。

先生が言う「今の時代」というのがどういう時代を指すのか、先生に直接伺ってみないとわからないとは思うのですが、私自身の体験からすると、今の時代と言うくくりの中にシュタイナーと言う人間が繰り返し言っている「意識魂の時代」と言うものを考えてしまうのです。

意識魂はとてもわかりにくいもので、シュタイナー自身具体的にどういうものかはっきりとは言っていないので、多くの人がそれぞれの解釈をしていますが、私が1番感じているのは意識魂の時代と言うのは、意志が大きな役割を果たしているものだと言うことです。シュタイナーの提唱した教育にあっても、意志が1番重要なポイントになっています。意志と言うのは心理学が1番扱いにくいとしているもので、実態があるにもかかわらず、それを説明しようとすると堂々巡りのようにわからなくなってしまうのです。

意志はもしかすると私たちの中に住む魔法使いのようなものかもしれません。教育的に見れば子どもを育てる力であり、医療的に見れば病気を治す力でもあり。あるのかないのか、よくわからない割には、とても大きな力となって私たちの中で働いているものです。

私の知り合いの女性は、その先生との長い時間にわたる話し合いの末に、なんとなく自分がこれから進むべき道が見えてきたような気がすると、久しぶりに明るい声で電話口で話してくれました。きっと彼女自身の治療オイリュトミーと言う経験を通して、何か直感するものがあって、それと同調して、これからの彼女の身の振り方が見えてきたのかもしれません。

子どもは喋っていても歌っている

2024年8月7日

大雑把にいうと就学以前の子どもの声は特別です。大人の声とは明らかに違う声です。小学校に上がる頃になるとだんだん大人の声に近づいてゆきます。決定的なのは思春期に見られる声変わりです。男の子の声は声帯が伸びることで一オクターブ低くなります。男の子の場合は顕著に見られる変化ですが、女性にも声変わりがあると私は考えています。私の耳にははっきりとそう聞こえます。

子どもの声とは一体どんな物なのでしょうか。何が大人の声と違うのでしょうか。

私の経験から言うと、昔体調を壊していた時に、幼稚園、保育園に通っている子どもたちの声が非常に気持ちよく、いつまでも聞いていたいものでした。もちろん子どもたちが話している内容も、純粋なもので、汚れのない物であることもあったと思いますが、声の質も大きな役割を演じていたと思っています。音程的には高い声、甲高い声ですから、神経に触りそうな気がするのですが、かえって大人の人たちの声が神経に触って聞いていて疲れたのです。子どものそうした声を聞いていると、固まった体がほぐされるようなものを感じていました。気持ちよくほぐしてくれるのです。天然のマッサージです。子どもですからしょっちゅう言い争いや喧嘩のようなとをしているのですが、その声すら気持ちよく聞いていたのです。

きっと子どもの声は体全体から作られているのです。お母さんのおっぱいを飲んでいる赤ちゃんが、お母さんに抱かれながら気持ちよさそうにしているのをみると、足をピクピクさせながら飲んでいのです。口の中だけでなく、体全体で、しかも足の先までおっぱいを味わっているのです。そうした体全体に広がっていた味わう能力がだんだん味覚というものに発展するのでしょうが、そうなると五感ですから頭というのか脳神経というのか、そこのあたりが主になって、体全体で味わうということはなくなってしまいます。

それと同じように子どもの声というのは、就学以前の段階ではまだ体全部が声作りに関与していて、大人のように頭で作った声とはちがう、生命感に溢れているのでしょう。その体全体からの声が当時の私の体に直接に響いたのだと今は思っています。

歌い手の素質のある人の声は、この体全体で作る声が残っている声と言ってみてはどうでしょう。子どものようなと言っては失礼になるのでしょうが、大人になっても体全体で声を作るという能力を維持した人たちなのです。それを持たずに、頭で作ってしまう知的な声になってしまった普通人は、声楽の訓練を受けて、歌の道を歩んでも、技術的に上手に歌うようにはなれても、体全体が響くような豊かな潤いのある声で歌うようにはならないのです。

歌い手になるというのは、いろいろな楽器を演奏する人たちとは違って、先天的な素質がものを言うようです。楽器の演奏は後天的な努力で補えるものが多いのでしょうが、歌い手には努力だけではなれないのです。歌うために生まれたという人たちがいるのです。

歌い手がしなければならないことは、美味しいものを食べて、よく寝ることだとよく言われるのですが、その言い方の中に、童心で素直で屈託なく生きろと言うことが言われているのかもしれません。歌うというのは素晴らしいことなのです。しかも子どもの頃には私たちはみんな歌う存在であるのです。

子どもの声ということで一つ補うと、子どもは歌うように喋れるのです。子どもたちは一生懸命何かを説明しようと、唾を飛ばさんばかりに頑張ることもありますが、その時ですら、大人が知的に説明するのとは違って、まるで歌っているように喋ってくれるのです。

いつかまた人間たちは子どものように体全体で喋れるようになるのでしょうか。ぜひそうなってほしいものです。そうなれば人間の会話に変化が生まれるような気がします。

教育の背景

2024年8月7日

教育はいつも時代を背景に持っているものの様です。

ペスタロッチはフランス革命の時に孤児となった子どもたちを集めて孤児院のようなものを作りそこで子どもたちに教育を施しました。彼の考え方は子どもの個性に見合った教育であり、精神性を養うために倫理的な生き方を示し、人間として生きてゆくための根幹を育成しようとしたのでした。時代背景はフランス革命と言っていいのかもしれません。ペスタロッチの指導を受けたと言われる、幼稚園の創始者フレーベルは産業革命が起こると社会の風潮は労働力を育成する必要の中で、子どもたちを集め、学校で集団生活ができるように子どもを教育する姿に心を痛ませたに違いありません、そこから幼児期を心豊かに育てる必然性を感じたのでしょう。その後の教育は、大雑把と言われてしまうかもしれませんが、いかに社会に役立つかを主眼としたものといってもいいと思います。ペスタロッチやフレーベルが大切にした精神性、倫理性は影を潜めてゆきました。

1919年にシュタイナーが学校を設立します。その時の二週間に及ぶ集中講義、後に教育芸術として3巻の本にまとめられる講義の初めに「この教育は知性や、感性だけでなく倫理をし育てるものなのです」と言葉にしています。

しかし残念なのは、その後、シュタイナー教育は「治療する教育」と言う観点で語られることが多くなるのです。教育は治癒、治癒と結びついて考えられるのです。私はここにやはりある時代背景があるように思えてならないのです。それは、当時心理学者たちの間で、さまざまな歴史的な天才たちをいろいろな病名をあてがって説明する風潮があったのです。優秀な人ほど病んでいるとでも言いたげなものでした。天才イコール病人でした。私の若い頃にはその手の本が随分とはやっていて、大変なブームだったのです。そんな中で基本的に人間はどこか病んでいると考える風潮が蔓延したのでしょう。ますます混沌としてゆく社会状況の中で、心の病が増えていったことも事実です。国家をあげてうつ病対策に取り組んでいます。そうした背景の中で治療という考えが社会に深く定着していったのです。それに伴って大変な種類のセラピーが一つの社会現象になっていきます。そんな中でシャタイナー教育のスローガンに「治癒する教育」が使われたのかもしれません。

私はシュタイナー教育の中心は治癒や治療ではないと考えているものです。創造の意志であり、創造の中の喜びであり、想像によって鍛えられる直感のようなものが教育を支えているもだと考えているのです。倫理性は人間が意志を働かせる中で育まれるのではないかとも考えています。シュタイナー教育は生きる喜びを子どもたちに与えたいと願っているのではないのでしょうか。