月への思い出話し
おととい、夕方西の空を見上げると雲の合間からくっきりとした三日月が美しく見とれてしまいました。夕闇までの僅かの間のお月見ですからありがたみも加わっていました。ここ一週間は雨模様で夜空の星とはご無沙汰していて、最後に見た月は確か夜明け前の西の空に係る下弦の三日月だったと記憶しています。新月を挟み再び現れた月は夕方の西の空に係る上弦の三日月になっていました。月は生き物のように欠けたり満ちたりしながら夜空を旅して私たちを見守っている様です。
月はラテン系の言葉ではluna、ルナで、ゲルマン系は英語ではmoon、ムーン、ドイツ語ではMond、モーントと言われそれぞれに違った捉え方がされています。共通したところでは自然現象、特に潮の満ち引きや女性の生理と結び付けられていますが、ルナの方は人間の気分を司る存在と見られているので、狼男の話などはそこ辺りに原因しているのかも知れません。ゲルマン系の月は時間を測るためのものということになる様です。昔は時間というのは天体の動きの中から読み取っていたわけで、月はその中でも身近に感じられる時間の変化を示してくれるありがたい存在だったに違いありません。
月は毎日少しづつ西から東に向けて移動します。子どもの時に近所のおじさんから、月を見ながら「拳を作って思いっきり手を夜空に向けて伸ばしてみろ」と言われてやったことがあります。それだけではなんのことかわからなかったのですが、確かに月は拳一つ分空を移動しているので、次の日は教えられた通り拳一つ分東の方に月が浮かんでいました。月の移動が、延ばした手の先の拳で測れるということを知り、ますます月が身近に感じられる様になったのを思い出します。
その月にアポロが着陸したのは高校生の頃でした。科学技術の推を集めた偉業に興奮してテレビにしがみついていました。その偉業によりいみじくも今までの月のイメージが粉々になってしまって、その日から月は全然違ったものに変わり、今までのような親しみとは違って、近くて遠いい交錯した存在になった様です。何年か続いたアポロ計画がなくなってからは、また昔の月が帰ってきました。アポロが着陸したということで近くなったのかというと逆で、月が心の中の夢から消えてかえって遠くの存在になってしまっただけでなく、色褪せた存在になってしまっていたのです。その頃には月の裏側の写真を見ても感じるものは何もなくなっていましたし、それが新月の時の反対側の満月だと分かっていてもなんだか虚しく白々しいだけでした。月の裏側には宇宙からの別の存在がすでに基地を持っているという話しも、心の中でどの様に整理していいのかわからずにいます。都市伝説という作り話ではないかと思ったりもします。
最後のアポロが月に行ってからもうずいぶん時間が経ちました。その間月面着陸の話しは観測機が頑張っているだけで、人間はいかなくなっている様です。そのおかけげで月の持つ本来の姿が心の中に蘇ってきたのは幸いでした。最近では月を見て、拳を握った腕を伸ばして、明日の月はあそこら辺りだなぁと子ども騙しのような天文観察をして楽しんでいます。






