声というものは

2025年9月25日

声について語る時にまず触れておかなければならないのが、声の肉体的な響きです。肺からの空気が流れ時に声帯を震わせて響くものです。声帯は繊細な筋肉でできたものですから、体の緊張が声帯を固めてしまうと、詰まった声、聞きにくい声になってしまいます。体をリラックスさせないと声は伸び伸びしてこないものなのです。声には肉体からだけでなく、その人の心の有様も聞くことができます。優しい人は優しい声ですし、威張っている人の声は、偉らぶって聞こえますし、人に厳しい人の声は固い、緊張した、怒ったような冷たい声です。まさに心そのものが響きになっています。心そのものが声だと言ってもいいほどです。さらに声には人柄、人格が聞き取れますから、人間の精神性を計るバロメーターでもあるのです。心の深さ、懐の深さというのはその人の精神性のことですからね精神的な人の声は自ずと深いものになります。

声は三つの要素からなっているわけです。ですから発声練習などで肉体的な発声訓練をしただけで声が良くなることはないのです。声を多くの人から喜んで聞いてもらえるような柔和なものにしたければ、心を柔和にしないとならないのです。心がとんがっている人からは優しい声など聞かれるはずがないのです。心の性格的なものではなく、心の品格というのか精神的な深みというのは、いわゆる修行という手続きを通らないと得られないものです。修行とは言っても座禅を組むとか、滝に打たれるとか、絶食をするとかの修行ではなく、人生を誠実に生きるという修行のできた人の声には深みがあります。逆に自分勝手に生きている様な人間の声は薄っぺらで聞いていてイライラする様なものです。

緊張のない声

緩やかな柔和な声

しっとりと深い声

と三つの段階で見ておくと声とその人の関わりはわかりやすいし、見間違えない様です。

 

声の世界に入ると、声は十年かかりますと言われるのですが、それもそのはずで、精神的な深みまで求められるとなると十年では足りないくらいです。一生かかるものと覚悟してかからないといけないものかもしれません。

私はすでに三十年前から声のことを講演と並行してやってきましたが、私が考えているような声を一緒に育てたいという人は、例外的に一人か二人はいましたが、ほとんど現れませんでした。今は七十半ばですから、これからそういう人が出てくるとも考えられません。私が考えている声は多くの人には受け入れていただけなかったということの様です。

しかし私が千回以上の講演会を三十年の間してこられたのは、ひとえに私の声のおかげだと思っています。この声から発せられる響きは単なる響きではなく、人によってはイメージを含んだ響きなのだそうです。声でもって体がほぐされて、緩んだところにイメージが生まれるのだそうです。そんな声なのに、この声をどうにか自分のものにしたいと考える人がほとんど出てこなかったのはなんでなんでしょうか。私は、きつと声というのがあまりにも身近なものであるためなのかもしれないと考えています。身近すぎるとありがたみがないものなのかもしれません。講演会などでは、身近な声のことではなく、聞きなれない難しい言葉を散りばめる方ががありがたみがあるのかもしれません。難しくてよくわからないというのは有り難みを増長してくれるものの様です。

YouTubeを見ているときに私が惹かれる動画は決まって誠実さがあるモノです。そのバロメーターになるのが私の場合はその人の声です。いい声とかというレベルの基準ではなく、その人の人柄、誠実さが伝わってくる声です。その声で話されているものは見ていて気持ちがいいです。内容が一見凄そうでも、誇張したモノであったり、声が浮ついている人のものは信じるに足りないと思いすぐに切ってしまいます。我ながら声は信じるに足るものだと思っています。

人を見るときに、表情とか、目つきのようなものもとても大切な要因ですが、それは器用に誤魔化せるモノのようで、私は声だけは誤魔化せないと思っているので、声を基準にしているという次第です。

 

コメントをどうぞ