時間と空間で作る物語

2026年1月20日

縦横高さ、ここそこあそこ、昨日今日明日、そして彼と彼女、貴方と私、それらがなかったらなんてまるでSFの世界です。

物語りは人間の思考の証です。思考という聖域を無くしてしまったら、物語りが作れなくなってしまいます。人間は物語ることで生きていることの手応えを感じているのです。物語ることで充実するのです。物語ることなくしては生きてゆけない存在のようです。

二つ上の私の姉はアルツハイマーで数年前から思考が停止してしまっています。その姉がある日夢に現れたのです。

夢の中では実際より遥かにアルツハイマーが進んでいて、自分が誰で、今どこにいるのかもわからないようになっていました。体はすこぶる元気で問題がなく元気に生きていますが、姉には語る物語がなくなっていました。半分しか生きていないということなのでしょうか。物語ることからすっかり離れてしまった姉はどこを誰と生きているのでしょうか。

そうした姉のすがたを見ていると瞑想している人の様でした。瞑想している時、時空から遠ざかり物語はだんだんと影を潜めて行きます。瞑想の質が高まれば高まるほど物語からは遠ざかり、最後は消えます。物語がまだ消しきれていない間、瞑想は迷路の中の迷走にしか過ぎないのです。

姉は施設のお世話になっていますから生きてゆくのに不自由はないのです。大抵のことは周囲から手が差し伸べられてなんとかなっているのですが、姉には物語るものがなくなってしまったのです。物語るものがないのは寂しいことなのでしょうか。本人は全く気づいていないようでした。瞑想であればそれは悟りへの道です。究極の瞑想は悟りです。悟りの世界では物語りを作る要素は存在していないのです。無の世界と言われる所以です。無の世界を目指して、ついに無の世界に到達したとします。そこでは無も消えてしまいます。無という概念は物語の世界の産物だからです。無の世界に入ってしまうと、スポイトの中の水が水滴となって下に待ち受けている容器の水の中に落ちた様なものです。その瞬間に水滴が容器の水の中に溶けて消えとしまうのです。姉の存在は夷狄の水のように溶けて消えてしまっているのでしょうか。

物語は表面張力だったのです。自我という表面張力です。

姉は私がわかっているようで、私を見てなんとなく微笑みかけます。かつて生きた物語の登場人物くらいにはわかっているのかもしれません。何かを感じているのて滋養。それを感じるときだけ笑顔です。登場人物の一人なので、それ以上の意味はなく、私が誰でもいいのです。さようならと言ってもわからない様でした。「また来るね」と言っても知らん顔をしています。悟った高僧のようにさりげなく、くるりと向きを変えて施設に消えて行きました。

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