食生活から見えるもの

2026年1月22日

ドイツと日本でしか生きて来なかったので、生活に密着した食生活と言うとこの二つの国のことになります。他の国の食べ物については旅行で行ってホテルや外食で食べるだけで、その国の食生活と言えるものに触れているといえばいえないこともないのでしょうが、深みはないです。もちろん表面的にはいろいろな違いがあって、食べる食材、調理方法などの違いは伺えて楽しいのですが、生活に密着していないという点からすると、その国の人が食事しているものを食べているとは言い難いと思っています。食生活をうんぬんするとなると、やはり毎日その土地で、しばらく食べてみないとわからないものだと思います。人間関係もよく似ています。もしかすると全く同じかもしれません。知り合っただけの時は他人ですが、お付き合いが始まりだんだん長くなってくると、初めの時の印象とはずいぶん違つてきます。他人からだんだん知っている人になって行くのですが、その変化は微妙です。そこで初めて気付かされることになるものが山ほどあります。

恋愛の始まりは一目惚からです。一目惚れと言うと色気のあるものですが、哲学、宗教がいう直感です。無駄なものが削ぎ落とされていて、本質に近いところまで一瞥しただけで到達してしまう素晴らしいものです。ですから一目惚れと言うのは、いろいろな状況で活用されていいものなのです。例えば会社の面談などでは、履歴書などよりは、面接に来た人の顔をじっと目見て直感から得たものの方が確かなことが多いものです。

日本的にお見合いなどする時には、相手方の人のことが詳しく調べ上げられたりしますが、その資料からその人のことがわかる部分もあるのでしょうが、やはり実際に会って直感がものを言うほどの距離にいて初めてその人とのお付き合いが始められるかどうかを決められるものです。しばらく付き合って、直感で感じたものから離れ経験の世界に入ると、今度は日常的な雑多なものがつきまとってきます。そのあたりで一緒に生きて行けるかどうかの判断が下せるのです。しかしわかったとは言ってもまだ他人です。結婚して生活を共にするようになると他人が他人でなくるわけで、深く人間関係の層に入って行きます。人間関係は何層にもなっているのです。

その層と言うのは玉ねぎの様なもので何枚剥いても同じ事の繰り返しで、深いところまで行っているのに普段は気が付かないものです。何層も剥いてしまうと最後は玉ねぎがなくなってしまいます。なくなったら悟りの様なものです。全部剥いたら玉ねぎで無くなってしまうわけで、玉ねぎを美味しく頂くのは皮むきをしている途中と言うことになります。悟ってしまうと、味も素っ気も無くなってしまいます。悟ったら、老子が無味の味という様なものの世界に入ってしまうのでしょうか。

私が成田からドイツに帰るとき、早い飛行機の時は空港近くで一泊していました。その時は決まって空港の近くのホテルではなく、成田という駅のちかくに宿を取っていました。そこは成田山新勝寺がすぐ近くにあって、朝の清々しい時間帯に散歩ができたからです。夜もたくさん地域に根付いた飲食店があり、それも楽しみでした。ある朝、本堂の階段を年老いた夫婦が寄り添って登っているところに出くわしました。普通に朝の挨拶をして、「お参りですか」と尋ねると「先日四国八十八ヶ所から帰ってきて今日はその報告に来ました」という返事でした。朝の清々しさに負けず劣らずお二人からの雰囲気は清々しいものでした。九十歳と八十八歳のご夫婦でした。人生のいろいろなものを味わい尽くした清々しさの様なものを感じ、ふとその時、悟りとはこの様なものなのだと頭の中をよぎったのです。

生活に密着した悟りもある様な気がしている今日この頃で、毎日の食事を楽しんでいます。

 

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