モーツァルトについて

2026年3月25日

モーツァルトの音楽は若い頃の私を捉えて離しませんでした。三度の飯よりもモーツアルトを聞いていたかったほどです。十代の頃は特にモーツァルトを聞きたかったのです。その後年を重ねる中でシューベルト、ハイドン、ヘンデル、マーラーなどを聞く様になります。今年で五十年ドイツで生きたことになるのですが、ドイツを代表するバッハ、ベートーヴェン、ブラームスの音楽にはほとんど関心を示すことはなかったのです。

モーツァルトに話を戻します。最近聞くモーツァルトは取り憑かれた様に聞いた十代の時とは違います。十代の頃はモーツァルトを通してヨーロッパの音楽の中に導かれていっていたようで。と同時に、モーツァルトの音楽は自分の心を一番代弁してくれていたのです。モーツァルトは私そのものだったのです。数あるモーツァルトの作品の中で好きなのは決まって長調の音楽でした
ついこの間のことです。車を運転している時に流れていたラジオからモーツァルトのハ長調の弦楽五重奏K515が聞こえてきたのです。昔から大好きだった曲で「やぁ、久しぶり」という感じで軽く聞き流していました。車の運転をしているので音楽だけに集中できなかったのが幸いしたのだと思います、突然モーツァルトの音楽が、言葉を言語として知り尽くした人によって書かれたドイツ語の文法の指南書のように聞こえてきたのです。手軽に言葉の使い方を指南しているような実用的な文法書ではなく、ドイツ語という言葉の骨格を深く知り尽くした文法書の様な感じです。日本でいうと関口存男(せきぐちつぎお)氏による、いわゆる関口文法のようなものです。読んでいると重厚でドイツ語の前に向って座らされているような本です。背筋が伸びるような本です。本場のドイ語で言うとヘルマン・パウルの難解な「ドイツ語の基本要項(Das Prinzipien der deutschen Sprache)」といった、ドイツ語を勉強流人は必ず読まなければならないと言われるものです。ドイツ語の本質が手に取るように見えてくる文法の指南書です。それ以来、モーツァルトの音楽はドイツ音楽の上等な文法書の様なものだと思う様になっのです。もちろん直感的なものでしたから一瞬のことだったのですが、その時の印象はなんとも余韻が長く、その後も何度も脳裏をよぎるのです。その度に「そうだよなぁー」と自分でも感心しているのです。
モーツァルトの音楽はドイツ音楽のエッセンスです。正真正銘の精製されたエッセンスだと思います。モーツァルトは西洋音楽の到達点だとも言えそうです。音楽が到達できる相当高いところまで辿り着いたものだと思います。小さな子どもが吐露する無垢な心の中の様なもので、演奏はとても難しいと言われています。技術、技巧の問題ではなく純粋な感情を音にするのが難しいです。モーツァルトが音楽から紐解いたものはあまりに純粋です。純粋すぎて手のつけようがないくらい脆く危ないものです。
音楽の使命は人間の感情を音にすることです。人間の感情と言うのは聖なるものから俗なものに至るまで様々なものが入り混じっています。透明でもあり不透明でもあるのが感情の姿です。それが音となっているのが音楽です。音楽から感情をのぞいてしまうと、ただ単に音のつながっているもので、心を打つものは何も見当たらないのです。また感情移入が過ぎると、これも聞くに絶えない雑音に変わってしまいます。モーツァルトの音楽と言うのはこういう複雑なものの中にあってさりげなく中心に位置している音楽の様でもあります。

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