ごっこ遊び
小さな子どもの遊びに「ごっこ遊び」と言うのがあります。お医者さんごっこ、お店屋さんごっこという類のものです。大人の社会でのお仕事に扮して、子どもたちはすっかりその役割に成り切ったつもりでやっています。役になり切るところを「初めての演劇」と見ている教育関係者もいます。子どもはそのごっこ遊びを充実させるために、本物のお医者さんの仕事ぶりをつぶさに観察したりします。お店屋さんごっこのために、買い物の時の商品の包み方、お客さんへの渡し方、お金の受け取り方などを実際の買い物時にしっかり観察するのです。子どもの成長の具合が読み取るもとても適した材料を提供してくれるものです。
ごっこ遊びは子どもの遊びだと思っていたのですが、最近よく、皮肉っぽく聞こえるかも知れませんが、人生はごっこ遊びの連続だったのかも知れないと思ったりしています。
そう思ったきっかけは「自分ごっこ」という言い方で自分の人生を振り返ってみた時でした。人間にとっての自分というのは死ぬまで謎なわけです。自分だと思っているのは、自分がそう思っているだけだということなのではないかと感じたのです。つまり「自分ごっこ」をしていたのだということです。
前回のブログで書いたように、自分という枠を作るところまではしっかり言葉のお世話になっています。ところが、その後は自分らしい自分を目指すという動きが生まれます。ここに自由ということを含めてもいいのかも知れません。ここで自分ごっこが終わるからです。自分ごっこでいるうちは自分という思い込みの中に閉じ込められているということなのです。自分で作った自分という枠を壊して初めて自分になれるのではないのだろうかということです。
唐突かも知れませんが、「線」というものについて考えてみたいのです。枠を作るということは線引きをするということでもあります。自分という線を他人との間にひく、ものと自分、自然と自分の間でもいいのですが、その線によって私たちは安心を得るのです。ただその線は私たちが勝手に作ったものなのです。確かに自然の中にも線は存在していますが、私たちがイメージとして持つ線は私たちの存在をくっきりさせるためのものなのではないかと思うのです。私たちは自然が持つ以上に線を求めているということです。レオナルド・ダ・ビンチのモナリザの不思議は、顔がほとんど線で区別されていないところだ言われています。線のない顔、顔の造形が先手に寄らずに描かれているところが大きな魅力なのではないかということです。
写真家たちは被写体を写す時にピントをしっかりと合わせます。ピンボケした写真などは素人の遊びに過ぎないのです。ところが厳密にいうと一眼レフでは正確なピントはえられないと言われています。ですから、二眼レフで光が落とされるフイルムの位置と被写体を正確に測ってより正確なピントを得るのです。しかし最近では芸術的表現の機構の一つとしてわざとピンボケの写真を使ったりするものが見られます。物体の線を曖昧にするのです。かつての写真がピントにこだわった能登は大違いです。かつては線を強調したかったからだと思います。今はものとものとの間の線引きが昔ほどではなくなっているのかも知れません。
自分も線引きされた枠の中ではないところに求めようとしているのかも知れません。
最近は自分探しがテーマになることが少なくなっているようです。その代わりに好きなことに全力で羞恥有することというアドヴァイスをよく耳にします。自分を忘れるほど夢中になれるものを探して、それで生きるというのです。自分という枠を作るのではなく、同じ枠でも線のない枠が新しい感覚なのかも知れません。






