楽譜のふしぎ
音楽が楽譜になって残されている。これは不思議なことだとつくづく思うことがあります。
小学校の時にリコーダーを音楽の時間に手渡されてみんなと一緒に吹いた時は先生が押さえる穴と指を示してくれていたと記憶しています。楽譜で音楽と接するようになったのは中学の時だったのですが、その時は歌う歌が楽譜になっている教科書を見ていただけで、楽譜を読むことはしていなかったはずです。
ということでいつ楽譜と出会ったのかは覚えていません。
その後大人になりまで楽譜が音楽にとってなんなのか、深く考えたことなどありませんでした。楽譜と言うのは便利な記号としか思っていなかったようです。ピアノを弾いたりギターを弾いたりしても楽譜は記号以外ではなかったのでした。
楽譜が記号から何か特別なものに変わったのは、好きな音楽の楽譜を友人に見せてもらって、音楽を聴きながら一緒にその楽譜を見た時でした。楽譜の働きや意味するところは知っていても、楽譜が音楽とこんなに近くにあるものだと言うのを知ったのはその時が初めてでした。楽譜が生き物のように見えてなんとも不思議でした。幼稚園の頃、字が読めるようになって、書いてあるものが読めた時の嬉しさもこんなものだったのでしょう。好きな音楽がこんなふうに姿を変えていたことが不思議でした。音楽となった一つ一つの音を聞きながら、音楽が楽譜になって五線紙の上を動き回っているのです。へそ曲がり者の私は好きなその音楽を聞きながら他の音楽の楽譜を見たりしてふざけていたのですが、聞いている音楽と見ている楽譜とは一つにならなかったことを覚えています。全くべつものものだということがわかり、それも不思議でした。
楽譜と幾らか親しくなった頃に楽譜とは生きた音楽の影のようなものに感じたりもしました。音楽が動くと楽譜も同じような動きをするのです。しかし楽譜はあくまでも影で、それが音楽になることはないことははっきりしていました。
作曲をしている音楽家は頭の中で音楽を聴いているのだと思います。しかしそれがどんなふうに響いているのかは想像すらできません。楽譜となった音楽なのかも知れないし、全く違ったイメージ的なものかも知りないしと堂々巡りです。しかしいずれにしても音楽家たちはそれを楽譜に移し替える能力を持っているようです。その時点で楽譜は記号以上の生き物だと言えそうです。
私たちが楽譜を手がかりにある曲が演奏できるまでのプロセスは全く逆の仕事です。音符を、楽譜を単なる記号から生きた記号にまで持ち上げなければならないからです。最後は演奏家個人の解釈を超えて、音楽家が頭の中で聞いた音楽に限りなく近づくことです。そうして初めて聞き手の心に響くものになるのです。
音楽を東洋の音楽の伝統のように師匠から弟子へとマンツーマンのような口伝で伝えてゆくか、それとも西洋的に楽譜で伝えてゆくかのちがいは色々に論議されています。どうやら口伝の方がそのままが正確に伝わるということのようです。楽譜はやはりそれを読む人の解釈が入ってしまうためオリジナルからだんだん離れていってしまうと言われています。時代の好みも大きいようです。
現代の演奏の特徴は個性を主張することのようで、演奏家、指揮者の個性的解釈を尊重しますが、もしかすると将来的には、個性という特徴を超えた領域が問われる次第が到来するのではないかと感じています。この音楽はそもそも何を言いたかったのかと問うほうが、個性を主張するよりも価値のある演奏として評価されるようになるということです。音の奥の音霊が演奏家と聞き手の間で共有できる時代が来るのかもしれません。






