正しさはとても脆いものです

2025年11月28日

先日のブログで正しさについて書いたものへの補足的な文章です。

「正しい」といういうのはまずは感じられるもので、初めから形を持ったものではありません。もし正しいという感触を成文化したりすると正しさ本来の姿が失われてしまうものです。正しいという手応えは閃光的な直感のもとで捉えられた時にだけ存在している脆い(もろい)もので、それがある目的のために使われる段になると、正しさは権力と結びついて、権力を正当化するために盾の様な道具に成り下がってしまいます。権力はいつも自らの考えや手段こそが正しいと信じていて正当化しているのです。

ということは正しいを繰り返す人たちにはこうした下心があると考えていいのではないのでしょうか。つまりそのような形で現れる「正しいこと」はまずは疑ってみる必要があるものということです。必要以上に「正しいこと」として繰り返されたり、成文化された正しさはもう本来の正しさとは違って道具としての方便になっているからです。

賢い人たちが編み出したこの方法は実にうまく機能するもので、権力を取りたい人たちがいち早くそこに飛びついて「正しい」を振り回す姿は歴史の中で繰り返されてきました。今も繰り返されていますし、これからも繰り返されるものでしょう。正しいというのは、裏を返すと便利なものなのです。

善なるものもよく似ています。「こうすることは善であり正しいのです」と言われると返す言葉が見つからないこともあります。下手に返すと倍返しで懲らしめられたりします。それほどこの盾は硬直していて外部からでは壊せないものなのです。唯一この盾を壊すことができるのは、それまで主張してきた善や正しさに、自ら疑問を感じ始める時です。新しい正しさに気付いた時ということかも知れません。それは他人からく言い含められたために起こるものでは無く、内側から、しかも直感的に悟る様に自ら気付く時です。

モラルとか倫理についてディスカッションなどしている時も、もどかしいものを感じます。これも形にして、つまり言葉にして捉えようとすると痒いところに手が届かない様なものなのです。モラルや倫理のことで忘れてはならないのは、それが個人的なものだということです。一人ひとり違った感性で自分自身に説明されているのです。一般的になってしまったモラルや倫理は形骸化したもので、制度化され、システム化されてしまい、果ては教育の中にまで降りてきたりして、教育という名前の洗脳に化けてしまいます。

シュタイナーが学校を作るときに、先生になる人たちを中心に催された二週間にわたる集まりの基調講演として毎朝行った講演、今日「一般人間学」として読むことができますが、そこでの第一声が「この学校は知のための教育でも、情のための教育でもなく、モラルへのセンスを育てる教育を目指しているものなのです」とはっきりと言っていますが、そこでシュタイナーは自分で考えたモラルを押し付けようとしているのではないことは明らかです。そうではなく、子どもたち一人ひとりの中にモラルへのセンスを育てるという課題について語ったのです。ところがこれは至難の業です。かつてモラルは宗教という枠の中で捉えられ、教えられたものでしたが、それを外してしまうというのは無謀なことだからです。宗教が一番手っ取り早いものでしたが、そこからモラルを解放しようとするわけですから前人未到の境地です。それを教育の場で実践しようとするわけですから、シュタイナーが考えた教育は今までの教育理念からは遠く外れたものにならざるを得ないのです。

正しさ、善、モラル、倫理というのはこれからも繰り返し書いてみたいテーマです。今一番求められているものだと思うからです。よろしくお付き合いください。

 

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