倫理、モラル、道徳とは

2025年12月15日

今日テーマにしている倫理、モラル、道徳は工夫をすれば言葉にすることもできます。滔々と説明している人を見かけたことがあります。道徳教育としてそれらをシステム化して教育の現場で授業をしている人もいます。確かに道徳を教えているのです。しかし言葉にしたりシステム化してしまうと何かが抜けてしまうと感じるのは私だけでしようか。そこからは倫理、モラル、道徳の一番美味しいところが味わえないのです。

「ああ言う倫理観のない人とは付き合いたくない」と言うとき、その発言者には倫理というものの手ごたがある程度は確信されていたのです。ただ「倫理観って何ですか」と聞き返されたとして、その人が私たちに納得ゆくような言葉で答えられたかどうかは疑問です。

倫理やモラルや道徳というのは哲学が持つ独特の無重力な状態の中でしか生きる場を見つけられないと私は思っています。フワッとしていて風が吹いたら飛んでいってしまいそうです。筋肉隆々の逞しい人とは違って、風で吹き飛ばされてしまうほどのものです。

倫理、モラル、道徳は社会に存在している力と結びつくことがあります。しかし結ついてしまうと危険です。社会と結びついたと言うのは目的と結びついたということです。この純粋な生き物が道具として使われることになるのです。権力や利権に結びつけられてとんでもない威力の原動力に変わってしまうのです。民衆にのしかかって来るのです。逃げ場がないほど苦しい状況が生まれます。倫理、モラル、道徳という本来は純粋で誰の心の中にあっても、その人の内面生活を支える大きな力となっているものです。ですから社会の道具に仕立てられててしまうと、民衆は抗えないのです。そうなったらもう倫理の「り」の字すら消えて無くなってしまっています。倫理、モラル、道徳と言うのは権力に結びつけられた途端に、非倫理、非モラル、非道徳に豹変され、本来の姿は消えて見えなくなってしまうものなので。

倫理、モラル、道徳が純粋だとして、そんなものは本当にこの世にあるのかと言われてしまうそうです。あると思えばあるもので、ではどこにどの様にあるのかというと、無重力なものの中にしかないものですとしか言えない情けないものなのです。とにかく言葉にした瞬間に姿を消してしまうからです。まるで音楽の音のようで、鳴った瞬間には確かにあったはずなのに、次の音が聞こえて来ると前の音は消えてなくなっています。それでも心の中には残っています。音を書き留めておくために楽譜があるではないかと言われる方もいらっしゃいますが、楽譜は実際には音の死骸の様なものです。そして楽譜で音楽を語ると言うのは解剖した死体の考えはどのようなものがと聞くようなものです。死体からではその人のことに関しては何も言えないように、楽譜からだけでは音楽の本質は語りきれないのです。楽譜はそれでも死体以上で、楽譜から読み取る勉強をした人にとっては音楽にたどり着ける確かな手がかりでもあるからです。

行間の様なものだとも言えます。行間は感じることができる人にしか存在していないものなのです。そんなものはないという人の前では「ない」としか言えないかも知れません。しかし行間から何かを読み取った人にしては行間は存在しているものです。しかし文字になっているもの以外には何も感じない人もいるのです。

倫理、モラル、道徳を語るときには善と悪ということが持ち出されて来るものです。倫理、モラル、道徳はもちろん一般的には善の味方ということになります。そして対極に悪があり、それは悪魔に支配されているよくないものなのです。勧善懲悪ということで、日本人が対好きなテレビドラマの水戸黄門やカーボーイ物語なとは善悪を白と黒に分けて扱い、最後は善が勝ってハッピーエンドとなります。しかし倫理、モラル、道徳はそんな簡単な縮図で説明できるものではありません。もし善と悪というものを使って説明しなければならないとしたら、あえて「善と悪の間に横たわっているもの」「善と悪の間を行き来しているもの」と言えるかも知れません。善と悪の間を元気に動き回れるようなフットワークのことを倫理、モラル、道徳というのかもしれません。根に動いているもののようで、捉えどころがないわけです。写真に収めることもできないようです。見ようとすると消えて隠れてしまうし、説明しようとすると、説明する人の目論みの中で都合のいいようなものに変わってしまうし、人に勧めようとすると押し付けがましいことになってしまうし、倫理、モラル、道徳の正体はつかみどころがないものなのです。

そかしそんなものが何千年もの間哲学という学問の中で生き続けてこられたのには何か理由があると考えていいのではないのでしょうか。何なのでしょう。それは人間に是と悪の間を行き来する勇気があったからなのでしないのでしょうか。そんなものは「ない」と言われても「あります」と言い続けられたのは勇気の賜物なのです。その勇気を後押ししていたのが、倫理、モラル、道徳だったのかもしれません。

 

 

 

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