動くということ
生きているということは体を動かせるということです。死んだ人は動かないのです。体が動くとは言っても、肉体だけでは動きません。そこから肉体を動かすものがあると考える訳です。動くというのは物質という重たいものに力が加わることで実現することなので、どんな力が加わっているのかということが問われることになります。シュタイナーはそこにエーテルの力を考えました。エーテルの力とは生命力です。エーテル体という体から生じる力です。エーテルの力が肉体に関わるので動くということになります。肉体というのは物質からできています。石と同じ物質です。石をも動かすことができるのはエーテルの力が加わるからだと考えたのです。物質を、石を動きに変える、つまり生きている状態にするのは意志だというのです。言葉の遊びになりますが意志は石をイメージしているのです。つまり動いているというのはそこに意志が働いているということになります。健康に問題を持つ人は動きでわかります。
コンピューターに記録しておくと便利は便利ですが、それは私たちの記憶という点からいうと、必ずしもおすすめではないのです。その内容を手書きでメモをしておくと、それは記憶に残りやすくなります。これは科学的に検証され、証明されているものです。記憶はエーテルの中に蓄えられています。したがって動くことを加味することで記憶に残りやすくなるとシュタイナーは考えるのです。メモする内容をコンピューターのキーボードで処理するか、ノートに筆記用具を使って書き残すかは、全く別な世界のことと言えるのです。
ある人のことを知りたいと思ったらその人の動き、動いている姿、歩いている姿を見ればよくわかります。その人のことが一番わかるのは思想などではなく動きを通してです。歩いている姿はその人の本質を全てを語っています。特に後ろから見ると本当によくわかります。声も私には動きですから、その人のことがよくわかります。声で言葉をしゃべっているのを聞くと、そこで話されている内容からよりもその人を丸出しにしています。筆跡も大切な動きですから隠しようがありません。
心を病んでいる人は動きでわかります。動きは意志によるのですが、意志は盲目的ですから盲目的な動きだけでなく、動きを見ているときは覚醒した動きを見て判断していることになります。そうしないとその人が動きの中に見るの生命力だけでその人が見えてこないことになります。ここにはアストラルの力が働いているとシュタイナーは考えます。アストラル体か盲目のエーテル的意志に光をもたらし覚醒され動きになります。覚醒したことで感情できなものが生まれます。意識された動き、感情の伴った動きです。このような動きは動物にも見られますが、人間は感情表現が伴っている動きから、踊りを発見しました。意図的に内容を意識して動けるのが人間です。ダンスやバレー、それぞれの民族が持ち民族舞踏などです。神殿舞踏もです。シュタイナーはそれにオイリュトミーを加えました。意図された動きから芸術が生まれたのです。
アルファーベートの国には筆記体とブロック体とがあります。私の子どもたちが学校に通っているときは両方使っていました。ところが少し前に学校教育の中で筆記体が排除されると聞きびっくりしました。ボツボツ、切れ切れのブロック体で書かれたものからは筆跡がわずかしか残らないからです。ところが最近はまた筆記体が復活しているようて、しかもボールペンではなく万年筆で描く練習をすることになっているそうです。
日本の文字では二つに分けられないです。そこで提案したいのは筆て字を書くことを授業で行うことです。筆で字を書く時に、字は形であると同時に動きが強調されるからです。習字き形の体験だけでなく動きの体験でもあるからです。
朝、授業の始まるの時に詩をクラスのみんなで読むことをやっている先生がいました。まだ微睡んでいる子どもを目覚めさせることになるようです。言葉を発するというのは、想像以上に体全体を動かしているのです。言葉は意味の伝達だけでく音となった言葉は動きとなって踊りのように表現しているのです。
一人暮らしの老人たちに、一日誰とも話さずに過ごすということが起こるのですが、人と話さなくても百人一首でも、好きな詩でも俳句でも、声に出して読んだら相当違ってくるはずです。
今日はここまでで続きは後日また。






