本のタイトル

2026年9月6日

娘がドイツ語の本を読んでいて、何を読んでいるのかと聞くと、ドイツ語で
「青山美智子っていう日本の女性の書いた本。ドイツのタイトルはコマチさんのおすすめの一冊っていうの、知ってる」
という返事。
「それ小説、それとも本の紹介」
「小説」
本を見せてもらったら、日本のタイトルは全然違っていた。
「お探し物は図書室まで」
だった。

そこで気になったのは、タイトルの長いことだった。昔は小説といえば、金閣寺とか雪国とか、青年とか、心とかでこれ以上短くならないようなものばかりだったのに、最近の特に女性の作家の本のタイトルはずいぶん変わっていて、傾向は長いタイトルがつく。

娘は南ドイツの放送局の音楽部門で、クラシック音楽のマネージメントをやっていて、オーケストラをまとめている。
「最近のクラシック音楽の分野の現代音楽の作品のタイトルも、詩からの引用かと思うくらい長いものが多くてやりにくくて」
という。
クラシックの音楽作品に名前がついているのもあるが、そのほとんどが作曲者本人がつけたものではなく、後世の人がニックネームのようにつけたものばかりである。運命、田園、英雄、ジュピターといったもの。
「現代の作曲家の長々しいタイトルは、クラシックの音楽世界で不自然に長すぎて、プログラムを作る時なんか、うまくまとめるのが大変」
ということらしい。
なぜ最近の小説や音楽のタイトルは長くなったのだろう。

なんの根拠もなく言うと、女性的感性の影響というのか、女性感性が活躍し始めていているのかもしれない。
昔の小説の多くは男性の作家のもの。もちろん樋口一葉といった女性もいるにはいたが、タイトルは短い。社会的に当時はダラダラ長いタイトルなどは本のタイトルに相応しくなかったこともある。男性好みかもしれない。今は時代が変わって男性作家でもタイトルの長い人がいる。
男性的女性的などとは昨今簡単に口にする事が許されていない、まだ禁句とまではいかないがそれに近いものを感じている。男性的女性的というのを別の言い方をすると円における、中心と円周の関係のようなもの。男性的なのは中心で、女性的なのは円周となる。中心はエッセンスで、円周は日常的現象ということで、身近な日常生活からの小説の書き方からすると、長いタイトルの方が小説の内容に相応しい。イデオロギー、美意識、哲学的な内容になるとエッセンスで短い言葉の方が凝縮している。本質的とは言い過ぎだが、円の中心点はそんなところがある。円周は三百六十度日常生活に対応している。どこもそこには日常生活の重みがある。
これが実は女性の強みであってどんな状況にも対応できる。円の中心はどんな角度から見ても同じで普遍的と言えるが、動きがない。
これからは円周と円の中心がバランス良く社会を作ってゆくのだろうか。

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