歌の秘密
歌には歌詞がある。という本があって面白く読みました。しかしよくよく考えるとこの言い方よりも、詩に音楽をつけると言う方が理にかなっているような気がします。元々言葉は音楽的な要素というのか、音楽そのものがが内包されているのであって、それを言葉のリズムにあわせて、歌いやすいメロディーに乗せるということから、今日的な歌になったからです。
しかし音楽が独自の道を歩み始めるという流れが西洋音楽の中に生まれます。音楽が優位に立つようになると、音楽を聞かせるために詩を使うと立ち位置が逆になってきました。クラシック音楽に限っていうと、今では歌のテキストとなっている詩は影のような存在になって、表は音楽が受け持つことになります。かえってポップやロックなどの方が歌詞を大切にしているものが多いようです。
日本には和歌を音楽的に読み上げる習慣がありました。放送局のアナウンサーが読むように単調には読んでいなかったはずです。今日でも年初めに宮廷で歌会始が執り行われていますが、そこで読まれる和歌はまるで歌うようです。メロディーのような抑揚があり、リズというのかゆっくりと伸ばしたり短く呼んだりと、それはまるで音楽の衣を着た歌のようです。詩吟という詩を朗々と歌い上げる伝統もあります。所作を交えると歌踊りです。お能の時のテキストは全て譜(うたい)となっています。
私に歌の指導してくださったドイツの女性のシェーファー先生が、当時、二十年前にレコードでお能を一緒に聴いた時、これは昔のケルトの歌のようだと言っていました。残念ながらケルトのその音源に触れることはできませんでしたが、お能の謡のような形は日本独自のものではなく、時代を遡るといろいろな民族の中に存在していたものなのかもしれません。古代ギリシャの音楽を聴いた時にも、よく似た詩の朗誦を聞くことができました。
べブライ後は文字がすでに楽譜となっていたと言います。言葉は歌われるものだったのです。
グレゴリオ聖歌という西洋の中世まで歌われていた、東ローマ帝国の東方教会の歌はまさに言葉を歌う儀式でした。そこからどのように言葉と音楽が分かれていったのかはとても興味深いテーマです。そこを整理して、これから歌がどう変わってゆくのかを考えるのはもっと興味深いものです。今日歌は音楽と見做されていますが、歌がいつの日か言葉の側から見られる時代が来るかもしれません。
ここにシューベルトの歌を持ってくるは唐突のように見えるかもしれませんが、私には彼の歌からさまざまな課題を受け取っています。
シューベルトは歌いたい詩を大切にしています。詩の内容はもちろんですが、言葉の響きにもとても配慮しています。実際に音楽と重なる時に、思いついたメロディーをつけたということはなく、声に出して何度も詩を読んでいたのです。そして詩全体の響きから音楽を導き出していたのです。言葉を歌う歌というのがシューベルトの歌の根本です。そして言葉の奥を音楽全体として歌ったのです。ですからただのよくできた歌というのではなく、イメージの総合芸術なのです。






