新しい出発 その四 (意思から意志へ)

2020年12月8日

意思から意志へと言われても何が問題になっているのかが分からない人が多いと思います。この二つのは、「いし」と同じ発音です。アクセントも同じです。ところが実際に使われているところを見ると、大抵はごっちゃごちゃになっていて、意志でも意思でも大差がないものというふうに考えられ、使われているようです。特に話し言葉として聞いているとどちらの「いし」のことを言っているか全くわかりません。

しかしこの二つには歴然とした違いがあるのでそこに触れたいと思います。

まずなじみ深い意思の方からです。意思が登場する時は目指す目的が設定されています。目的が明確で具体的か、あるいはまだぼんやりしているかはともかくとして、その目的に向かってゆく時に働く心全体の力、エネルギーを意思と呼んでいるのではないのでしょうか。意思は目的を持っているのです。

では意志はどうでしょうか。意思と一線を記すのは意志が目的のためのものではないというところです。

意思の方は、目的が設定された後の心の働きです。目的に向かっています。しかし後者の意志の方は、目的が定まる以前に存在しているもののようです。目的を作る力なのかもしれません。目的を設定しようとして働いている心の中の力と言えるのかもしれません。意志はまだ無目的な状態の中で働いています。意思が具体的な方向性を持っているのに対して、意志の方向性は無限に開かれています。

英語の文法で不定詞(infinitiv)と呼ばれているものがあります。皆さんもご存知のように「to」で導かれるものですが、to 以下の役割内容は見ただけでは定められていな未定の状態だと言うことで不定詞というのです。不定詞もいつかは具体的な役割を持つように成るのですが、それは文脈次第です。文脈次第でどのようにでも変化できるという便利なものそれが不定詞なのです。ところが文脈を読みきれないと訳が分からなくなってしまうという厄介なものでもあるのです。

意志の場合もよく似ていて、意志は状況次第で何にでもなりうるということです。ドイツの哲学者ショーペンハウエルは意志を盲目に例えています。

こんなに違うものなのになぜ普段は混同されてしまうのかというと、意志のプロセスを意識的に整理するのが難しいからです。私たちが意識下とか無意識と呼んでいるところで起こっているからです。意志の、不定であり、未定であり、無方向性なところはわかりにくいものです。それが意識下でなされるとなると、わかりにくいだけでなく、私たちを不安にさえしかねません。しかし曖昧なものではなく、私たちが何かの行動を心の中に発動するときに必ず働いているものです。

意志の観察はスローモーションで見ないとわからないかもしれません。この意志に思考が働きかけて来るのです。思考とは言ってもよく考え抜かれた思考もあれば、まだ生まれたての思考もあります。生まれたての思考が意志に働きかけると、心の中に何かが思い浮かぶのです。英語のイマジネーションという言葉はここのところを言っています。日本語化したイメージです。つまり意志と言うのはイマジネーションを支えているものということでもあるのです。このイメージですがこの時点ではまだまだぼんやりした雲のようなものです。

 

私は意志を突き立てのお餅に例えます。そのままちぎって食べるのか、これから丸餅するのか、四角い餅になるのか、お団子に丸められるのか未定です。まさに不定詞そのものです。もし意志の状態のままでいたら、突き立てのお餅もそのまま手をつけずに置いたままであればいつか固まってしまい、果ては金槌で力づくで割らなければならなくなってしまい、破片だらけのお餅は使い道がほとんどありません。折角のお餅が台無しになってしまいます。同じように意志も思考からの働きかけがないと手付かずのままなので、干からびで使い物にならなくなってしまいます。

意志に形を与えることです。どんな形でもいいのです。本当にどんなものでもいいのです。誤解されることを覚悟で言うと、倫理、道徳から外れていてもいいのです。

シュタイナー教育は意思を育てる教育ではなく意志を育てる教育です。意志を育てようとしているのです。ということは、この教育、一筋縄ではいかない教育だということがわかります。私たちは意識下で働いている意志になかなかたどり着かないからです。意思の方はわかりやすいものです。悪く言えば昔の根性に通じるものです。しかし意志は根性を鍛えても育たないのです。それどころか全く逆効果で、そんなことをしたら意志は硬直してしまいます。干からびたお餅になってしまうのです。

今日の教育を見ていると、教育という名のもとにこの干からびたお餅を作ることが積極的になされているのではないかと懸念しています。

ぜひ意志に方向転換して欲しいのです。

 

コメントをどうぞ