新しい出発 その五 (改めて意志について)

2020年12月9日

前回は意志の難しさを浮き彫りにしたところで話が終わってしまいました。今日はその続きを書きます。

意志は無意識、潜在意識ですから、得体の知れない、掴み所のないものなので、長い時間向き合うのは危険です。したがって今日のブログはつまみ食い的なブロクにしましたのでそのつもりで読んでください。

 

グリム童話に付き合っていただきたいと思います。星の金貨です。

「一人の貧しい女の子が住んでいました。お父さんもお母さんもとっくに亡くなっていました。住むところがないほど暮らしは貧しいものでした。身に纏っているものと親切な人が恵んでくれたパン一切れだけになってしまいました。女の子は純粋で信心深い子どもでした。世の中は女の子を見捨てました。ある日神様が護ってくれる事を信じて町外れの森に向かいました。」

これが冒頭の部分です。

お話は状況を描写するだけで進んでゆきます。箇条書き的だともとれますが、童話的、昔話的です。

つまり、女の子がいた。貧しかった。両親は他界している。部屋どころかベッドもない。着のみ着のままになってしまった。手元にあるのは恵んでもらった一切れのパンだけ。女の子は純粋で信心深い。世の中は女の子を見捨てた。神様を信じて森に向かう。

このようなシンプルさが童話、昔話の特徴です。なぜならばという説明的なことは省かれています。その要素を加えると多分散文的になります。小説に近づく感じです。

あるところに一人の貧しい女の子が住んでいました。すでにお父さんもお母さんも亡くなっていましたから、住む家も寝る所もなく、着のみ着のままの生活を強いられている貧しい女の子でした。とうとうあるものはと言えば恵んでもらった一切れのパンだけになってしまいました。女の子は世の中から見捨てられてしまったのです。それでも女の子の心は清く純粋で信仰深さを失っていませんでした。女の子はある日神様の加護を信じて森に向かいました。

 

大人の人は後者のような語りを好むと思います。私たちが説明に慣らされているからです。事柄の理由づけが必要なのです。

唐突ですが武道の指導をされている方たちとお話をした時のことを書きます。お話をしていると共通したことが話題になります。「現代人は直感力が乏しいからですかね、すぐに頭で考えて色々と整理しようとします。ところがそれでは上達しません。相手が見えないのです。頭を空っぽにするとどんどん上達するのですがね」ということがいつも言われていました。

直感というのは頭を使わないでいる状態で起こります。頭を使わないというのは、考えると言われている、整理する、説明することをしないということです。直感は考えないで理解するのです。理解できるのです。ところが私たちは理解するために考えるわけです。考えると余計な思い込みが混ざってしまいます。そのため結局はコメント程度の、皮相的で表面的な説明で終わってしまい、本当の理解の域まで行っていないことがほとんどです。

直感による理解は思い込みという混ざり物が紛れ込まないので、対峙しているものと直に向かい合えるのです。ということは思い込みでコメントを繰り返している現代人は実にもったいないことをしているというわけです(実はこれもエゴの副産物なのですが)。直感力を取り戻せたら、もっと素直にものの本質に入っていけるのです。皮肉なことに、考えれば考えるほど理解というのは狭まってしまいます。そして、その挙げ句、自分が理解したいようにしか理解していないということになってしまうのです。

 

なぜ初めにグリム童話の語り口を引き合いに出したのかというと、事実だけが淡々と並べられる童話的・昔話的表現に注目したかったからです。この語り口は説明を加えるよりも小さな子どもにはインパクトが強くイメージしやすいのです。小さな子どもは話を聞いて私たち大人のように理解していると思うのは間違いで、子どもたちは理解という知的な解釈ではなく、イメージしているだけなのです。イメージで十分なのです。ところがこのイメージは非常に鮮明でありながら、柔軟なものなので、子どもたちの生活の中に溶け込むように入り込んで、童話で聞いた話と、実際の生活とを結びつけることができるのです。

グリム童話には残酷な話が山ほどあり、神経質な学者さんたちはそのような話は聞かせるべきでないと主張します。赤ずきんちゃんなどは、狼が森で一人暮らしをしているおばあさんを食べちゃうわけです。そして赤ずきんちゃは狩人と一緒にその狼を捕まえると、今度は腹をハサミで切り裂いて思い石を詰め込むのです。狼はその石の重さで井戸に落ちて最後は死んでしまいます。その時「狼死んだ、狼死んだ」と赤ずきんちゃんは大喜びをするのです。神経質な大人たちの「殺人犯を育てるようなものだ」という主張は、子どもたちが私たち大人のように話を理解していることを前提にしているから生まれる発想です。子どもたちはイメージしているだけなのです。それは大人社会の倫理的なしがらみとは別の世界を遊んでいるのです。

ここでグリム童話や小さな子どものイメージを取り上げたのは、知的な能力を持たない小さな子どもがたっぷり意志を生きている姿を確認したかったからです。イメージは意志と深い関係を持っているのです。

イメージは映像的です。ドイツ語では映像はビルト(Bild)といい、言語学的にはこの言葉がどのようにして生まれたのかがわかっていないのです(Hermann Paul)。私たちはイメージ、映像といいますが、その言葉が本来意味しているものはよく知らないで使っているのです。

私の勝手な憶測ですが、イメージは知的な結果ではなく、意志の働きから生まれて来るもので、今のところ意志のことがよくわかっていないわけですから、言語的にみたときにイメージ、ビルトのもとの意味がわからないのだと思うのです。

子ともたちに沢山お話を聞かせたいと願っています。それはお話の中の出来事を追体験という形で押し付け、人生教訓を理解させるのが目的ではなく、イメージをどんどん膨らませ自分の中に取り込んで心を膨らませることになるからです。聞いた話と実際の毎日の生活の区別など子どもにはないのです。子どもを取り巻いているのはイメージする力だからです。

 

 

 

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