ユーモア探しの旅

2021年1月11日

年初めにユーモアをテーマにした小説を読んでみたいといろいろと考えたのですが、思い当たりませんでした。

なんでだろうと不思議でした。そこでなんでユーモアは小説を始め文学のテーマにならないのだろうと考え始めました。

 

最近のテレビはお笑い芸人の独壇場になっています。私なりに納得しているのは、彼らの話術の力による体ということですです。アナウンサー仕込みの人が司会するのと、お笑い芸人ではずいぶん違います。どちらも話し方を学び習得した人だと思うのですが、ベースが違うからでしょう。

アナウンサーはニュースを読む人です。ニュースの原稿を読みそれを誠実に聞き手に伝えるのが仕事ですから真面目さが売りです。ニュースを聞いている人がそんなの嘘だろうと思うようではアナウンサーとしては失格です。アナウンサーは朗読のようなもの、あるいは聞き手役としては向いているのでしょうが「場」を作って楽しませる話術の持ち主ではありません。

ところがお笑い芸人は、芸柄本当のことを言っているのか嘘かがわからなくてもいいのです。嘘でも本当のように言えなければなりません。落語や漫才などで話されている話しを頭っから信じる人はいません。大切なのは「場」です。その場で聞き手を楽しませればお仕事が果たせたことになります。そうして作られた「場」で話を聞いていると、本当に楽しいものです。寄席や演芸場に今でも足を運ぶ人がいるのは話術によって生まれる「場」を楽しみたいからです。

 

ではユーモアはどこで味わえるのでしょうか。面白おかしいだけではユーモアではありません。ユーモアは存在の中にあるので、例えば真面目なアナウンサーでも、その人の性格や人格から余裕のある話し方にユーモアを感じることもあれば、真面目さの間からユーモアがのぞいていたりします。笑わせ上手な芸人の話が押し付けるような、聞いていると苦しくなってくるようでは、話題はおかしくても、ユーモアを感じることはありません。小説やお芝居でも、題材が面白おかしいということだけではユーモアにはつながらないのです。

私は芸術の中で一番ユーモアがないのは音楽だと思っています。特にクラシック音楽にはユーモアが聞かれません。我が家のお寺さんは谷中という上野と日暮里の間にあり、行きは日暮里からで、帰りは歩きで上野経由です。その途中に東京芸術大学があり、道路を挟んで、美術系と音楽系に別れています。歩いている学生がどちらに入るかでどちらが音楽系で、どちらが美術系かはすぐにわかるのです。くどくどはいいませんが、音楽系はすっきりとしているのに、美術系は近くのホームレスの人とあまり変わらない格好でいつも大きな、時にはゴミのような荷物を抱えています。音楽というのはとても合理的な法則のもとにあるものだということがそれをみてもよくわかります。現代音楽はその法則に逆らって音楽を作っているのでしょうが、その法則が音楽なので、現代音楽は音楽と称しているものの本当は美術系なのかもしれません。ともあれ音楽にはユーモアがないのです。音楽から深い祈りを感じたりすると。音楽を聴いて良かったと思いますが、ユーモアを期待して音楽を聴くことはありません。

漫画という言葉にユーモアを感じるのですが、漫画の始まりは鳥獣戯画なので、実は真面目な風刺的なものだったのでしょうか。漫画というのは、子どもの頃は、滑稽なもので、肩の凝るようなものではない、面白おかしいこと、気休め的なことの総称だったように思っていました。今日の漫画の原点は明治に入ってからの輸入物だったのです。漫画というと北斎漫画が有名ですが、北斎のは日常生活を漫然と書いたものという意味のもので、直接漫画とは関係ないものです。最近はアニメという呼び名に変わり、文学以上に文学的な、哲学以上に哲学的な作品もあり、映画化されるものを少なくありません。アニメは漫画というイメージから想像できない世界に飛び出して行きました。こうしてみると漫画の世界にもユーモアがあるとは確約されていないようです。

 

ということで今年もユーモア探しの旅は続きそうです。

 

 

 

 

 

 

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