嘘の反対は

2021年4月23日

昨今は嘘があまりに多すぎます。どこを向いても嘘、ウソ、うそという感じで、至る所に嘘が溢れ、生活環境は嘘で染まっています。政治も嘘、学問もうそ、歴史なんか全部ウソに見えてきます。誰かが嘘を持ってきてくれても、もう置くところがないどころかはいても捨てる場所もない程の有様です。

それなのに嘘は毎日量産され毎日私のところにも運ばれてきます。

 

今までは本当と嘘という図式が教えられていました。本当のことを言いなさい、とは小学校からずっと言われ続けてきたことで、耳にタコができています。私も本当の反対が嘘だとずっと信じていました。そのため嘘の反対は何かと聞かれたら本当とか真実とかいうふうに答えてきました。

ところが最近の嘘の氾濫を見ていると、それでは納得できないものを感じています。真実の反対は嘘です。ここまではなんとか着いて行けます。しかし嘘の反対は何かというと、真実、本当と言ってもなんの反応もないのです。どうも真実ではないような気がするのです。真実がどこにあるのかすらわからなくなっています。嘘にコーティングされてしまって見えなくなったのでしょうか。

 

最近の嘘はもうしっかり独立していますから、真実の反対だなんてほんのわずかな人しか思っていないと思います。嘘はしっかり市民権を持って、堂々としています。

恥ずかしそうに嘘はつくものでした。それが嘘をつくときの礼儀だったのは昔のことで、今は全く違って、嘘は堂々と、本当のことを言う以上に堂々と言う時代なのです。嘘は百回つくと本当になるとも言われています。却って本当のほうが遠慮して「今のは本当です」なんて言うようになってしまいました。

 

まだ嘘の反対に拘っています。嘘の反対はなんでしょう。これが見つかったら、何かが進展しそうな気がします。今私が思いついたのは、知るものは語らず、語るものは知らずと言う老子の言葉です。

嘘の反対は語らないことなのかもしれません。老子はとっくの昔に知っていたようです。今の世の中の嘘の氾濫は彼にしてみたら少し派手になりすぎているくらいにしか見えないのかもしれません。

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