独り言からブログへ 今日もまた自由について

2011年4月10日

独り言はカタカナで書くとブログというらしい。

それで今はブログとして書く覚悟を決めました。すでにためしに書いていますが・・。

今度は独り言の時よりすこし長めですから飽きたら勝手に読むのを止めてください。

 

 

この秋に予定されている秋の「中国セミナー(仮称)」の打ち合わせをするため、ベルリンに行っていました。

ベルリンのことは追々書くことにしましよう。

ここで言う中国とはchinaのことです。

中国では勿論沢山ライアーを弾きます。

そして五日間「人間の出会いの不思議}というセミナーをします。

人間の出会いのこと、気質のこと、声のこと、自由ということ、自我のこと、などです。

そこでどういう体験があったのか、いずれ詳しくピアニッシモなり、このブログで報告します。

 

 

今日は準備と言うのか練習のために、その一つ、自由のことを書いてみます。

すでに今までにも独り言の時に書いてみましたが、この問題は尽きることがないものですから、これからもしつこく書きます。

すこし前のことです。青少年育成のための施設のパンフレットを見ていた時、ふと目に入ったのは「ここには自由があります」というふれこみでした。。

これを書いた人がどの程度の人か察しが付いたので、そのままにして置きましたが、随分立派なウソをつくものだと呆れていました。。

自由というのはスーパーマーケットで何グラムいくらという風に買えるものではないはずです。

おそらく、悟りと同じです。

悟りを開いたらそれで精神修行が終わりだと思っている人がいたら、それは悟りをスーはーマーケットで買おうとしている人とたいして変りがないと思います。

悟りは続きます。悟りとは真実を悟るということですが、真実はある一定の所にあるのではなく、生きものですから、いつもでも育ち続けると思っていいのです。

自由も続きます。

別の例を出します。

玉ねぎです。

自由になるたびに玉ねぎの皮をむいているようなものです。どこまでむけるかということです。

絶対自由というのはないですから、その人に見合った自由があるだけです。

その人の才能だけ皮がむけるというものでしょう。

あるいは、自由はオーダーメイドの服の様なものといえるかもしれません。

皆で着られる洋服なんて、誰が着ても似合わないですよ。

 

 

日常の生活の中にも、自由への可能性は満ち満ちているというも言っておきたいことです。

ここはとても大きな意味を持っています。

自分というものを不自由と感じさえすれば、自由はどこにでもあるということですから。

とはいっても勘違いをしないでいただきたいのです。

自分に不満ばかり言うことが自由への道ではないのです。

だいたい程度の低い人ほど不満不平をだらだらといいます。

自分の都合ばかり考える人です。全てが自分中心で、しかもたいていは他の人と比較しているものです。

自分の中に閉じこもっているともいえます。

そういう人は自分を満足させることばかり考えていないで、先ずは自分に満足することを学ばなければなりません。

その人たちにとって学ばなければならないのは「足るを知る」です。

もう一つは克己です。

自分の今の状態に不満だということです。

相手がどうのこうのではなくて今の自分に不満なのです。

これはとても繊細な感情で、我儘の様に自分を守るというものではなく、却って捨て身の自分の様なものです。

自分が枠の中に閉じ込められているように見えるものです。

そしてその枠を超えることに大きな情熱を持つのです。

その時の自由とは開放感です。

自分が可愛いのではなくて、自分を閉じ込めている枠が邪魔でそれを乗り越えたいという気持ちが起こるのです。

その開放感を感じる瞬間にだけ自由があるといえます。

 

 

出来あがった自由というのが紛れもないウソだということ、きっと解っていただけたと思います。

自由の大半はプロセスです。

そして人生の途中にあって自由を体得するというのは、点の様なもので、あるにはあっても見えないものだということです。

自由は見えない世界と見える世界の中間にあるものといい方ができると思います。

そして自由とは身近なものでもあるのです。

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