シーソーの原理とライアー

2011年4月6日

健全という言葉はあまり振り回すとすぐに非健全にすり替わってしまう。

この辺りが人生の繊細なところだろう。

どこに境界があるのかと言うと、それは目に見えていながら見えないところで起こっている。

一つ例を出すとシーソーだ。シーソーのバランスだ。

シーソーは形だけは見えている。しかし形だけでは生きたシーソーではなくて、二つの座る場所に同じ重さが乗って初めて生きたシーソーになる。

上になったり下になったりがシーソーの生きた姿だ。

そしてそれがシーソーの醍醐味といえる。シーソーの本質といってもいい。

同じようなことは「天秤測り」でもいえる。一つのお皿の上にだけ重さがかかれば、測りは傾いてしまう。

たとえば魚の重さを測ろうとして一方のお皿に載せると、天秤はすぐに傾く。

それがどんな重さの魚でも、小エビの様なものでも同じだ。測りが精密であればある程軽いものにも反応する。

一つのお皿にだけに物が乗っている時はものの重さが測れない。

傾いた天秤測りの姿程醜い物はない。

それに見合えるものがもう一方のお皿の上に乗ってそれで始めて天秤測りであって、そこで初めて測られる。

ここでいう測るというのは同量のことだから、バランスと考えていただきたい。

天秤測りはバランスで測っていた。

今は数値で測る時代だ。アナログにしてもデジタルにしてもだ。

天秤測りでも重さを数値で表そうとする時には錘を示す錘を使う。

しかし測るという本質は数値でなくてもよくて、大事なのは同じ量のものが乗っているということだ。

 

 

ものの考え方というのはシーソーとか、天秤測りに似ていて、一つだけの考え方が社会にはびこっている時には、バランスが壊れていて、危ない。

こういうことはいつも特殊状況の中で起こってしまう。歴史はそのことをちゃんと教えてくれている。

特殊なものの一つには戦争がある。

ところが戦争というのは何も鉄砲や爆弾を使っての争いばかりでない。

是非ここに注目していただきたい。

私たちの毎日の生活の中にも戦争は存在している。

敵を作ったら戦争だ。何かを悪者にしたらそれはもう戦争開始ということだ。

そしてそうなるといつも敵になった人とかものとか、あるいは悪者になった人とかものに付いて「一方的なことばかり」がいわれるようになる。

攻撃開始だ。

とても安易な方法だ。私はここをとても嫌っている。

絶対的に悪いものというのはあるのだろうか。

このことをゆっくりと考えることにしている。

悪者の代表の悪魔ですら、私の勝手な想像だが、悪者の顔なんかしていないと思う。

一見悪者に見えているものは案外悪くなくて、正しいものの見方の様な顔をして、悪者退治をしている、表面悪くなんかなさそうに見えているものの方が悪かっ

たりもする。

悪者を上手に仕立てて、正義の味方なんて顔をしているものが一番危なっかしいものだと私は思っている。

 

 

是非悪者のに仕立て上げられているものを今の社会に見つけてほしい。

そしてそれが本当に悪いものなのか、絶対に悪いものなのかを見極めてほしい。

それは武器を使わない戦争だからだ。

そして悪くいわれているものが本当に悪いものなのか、更に正義づらをしているものの正体も暴いてほしい。

暴けるほどしっかりと社会を見つめてほしい。

安易な方に流れると、いつも絶対社会がその先で待っているからだ。

 

 

さて、すこし話しがずれるかもしれないがライアーの話しをしよう。

今、音楽が一つの考えに染まっているような気がする

音楽的というのはある決まったパターンの中でいわれているものにすぎない。

そこを是非越えて新しい音楽へ寄与したい

いつもそんなことを考えてライアーを弾いている。

ライアーには心に語りかける力があるとよく感じる。ライアーのもつ長い余韻かもしれない。

心という、バランスの中に健全なものを感じる場所で、ライアーの音は捉えられているのだ。

心のバランスは呼吸のことだ。

吸うと吐くと二つの力がバランスを取っている時、呼吸も心も健全に働いている。

心を一面的に占領してしまっては、バランスが崩れ、自律神経も崩れ、健全なものが無くなってしまう。

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