職人と芸術家の美

2021年1月8日

友人たちと音楽の話をするのは楽しいひと時です。そんな時によく感じるのは、音楽の中に入ってしまうような経験を持つ人が意外と多いことです。音楽を職業にしている人に限らず、音楽好きはとても極端な人が多いのでしょうか。あるいは純粋すぎて音楽に溶け込んでしまうのでしょうか。とりあえずは羨ましい限りだと言っておきます。

音楽だけでなく絵を描いている人たちも色とか形とかを絵を鑑賞している人とは別の次元で体験しているのだと思います。そしてその体験も溶け込んでしまうようなものなのかもしれません。

芸術的な才能に恵まれた人特有の美と対する感性なのでしょう。

もちろん創作という仕事を持つ場合、ただ溶け込んでしまっただけでは成立しないでしょうから、なんらかの距離を保たなければならないのでしょうが、基本的にはやはり同化してしまうというものがまず無いと芸術の世界は始まらないもののようです。

 

若い頃よく職人と芸術家の違いについても語り合ったことがあります。当時は職人より芸術家の仕事の方を上だと考えていました。最近はどちらにも共通したものがあって、そこで優劣をつけても仕方がないように感じています。共通しているのはもちろん溶け込んでしまうような熱い思いと冷静な直感力、と作品に仕上げる忍耐力、そしてそこから生まれる美の世界です。

ハイドンのところでゲーテのハイドン感を引用しました。ゲーテが苦悩の表現は本質的なものではないと言い切っていたのが印象的で皆さんとシェアーしたいと思ったのです。ゲーテ自身が「若きウェルテルの悩み」を書き、それで一躍名を世界に知らしめた作家なので、その文章の意外性に驚いたのです。ゲーテは自分は次の世代からは理解されないとも言っています。つまり十九世紀の苦悩が中心テーマになる芸術の風潮の中で自分は理解されないと考えていたのです。その後に来る別の時代意識のもとでだんだんと評価されるようになると感じていたのです。

 

職人が物を作っている時、創作の渦の中にいる時、苦悩などはチラつくことがないでしょう。苦悩の表現などというのは甘えではないかと考えてはいけないのでしょうか。知的な階層の人たちの解釈は、職人たちはインテリではなく、苦悩に満ちた人生の克服などという人生解釈とは無縁だという見方です。露骨には言いませんが、職人たちは頭が悪いと言っているようなものです。確かに職人たちは小さい時から親父の仕事場に出入りして、技術的なものを知らないうちに身につけていたりする人も多くいます。一般的には職人たちの学歴は低かったようです。ただ学歴が美を生むのなら、今日の高学歴社会は芸術的美に溢れていなければならなのですが、どうもそうではないような気がしてなりません。

ドイツがまだ職人気質を備えていた頃は、一人前の職人になるには高卒、しかもそこで大学入学資格、日本でいう全国一斉テストのようなものですが、を取ってからでは遅すぎるとよく言われたものでした。早ければ早いほどよく、遅くとも義務教育が終わった時点で、中卒ということです、職人の道に入らなければ体が仕事を覚えてはくれないと言われていたのです。しかし最近は職人の修行の期間が中卒は三年かかるのに、高卒で、しかも大学入学資格を持っていると理解力に優れているわけだから二年でいいというところもあるほど、知的であることが職人世界でも優先する社会に変わりました。

もちろん今でも中卒で職人の道に入る人がいないでもないですが、義務教育を終えただけでは修行の道に入ることすらできないような学歴社会の中で、義務教育しか受けられない子どもたちが社会に受け入れられにくくなっているのが現状です。これは別の問題も含まれるのでここではこれ以上深入りしません。

 

芸大を出て芸術活動をしているかたがこんな言葉を言われたことがあります。「俺たちが作るのはせいぜい芸樹作品だよ。でも子どもの頃から体で仕事を覚えた職人さんたちはな、本物の世界を知っているんだ。彼らはな、真実を作り出すことができるんだよ」。

この言葉を聞いた時、苦悩の表現を可能にする芸術作品こそが最高のものだと思っていた当時の私はその意味が半信半疑でした。その後、職人さんたちといろいろな出会いがあり、職人の世界を垣間見るにつけ、その方の言葉がだんだんと重さを増してきました。職人さんたちの日常から出発して日常を超えたところに見つけた美と、芸術家という知的人間が非日常の空間の中から見つけ出してくる美。今は職人と芸術家の間の境界線は取り払われています。

ゲーテの言葉には芸術のこれからの道を考える上でとても勇気づけられます。人間の本質、それは美である、眩しいくらいの言葉です。

言葉の限界

2021年1月7日

言葉で言えることには限界がある、とは薄々感じています。ここからは言葉では言えない領域というのは感覚的に捉えられるものなのでしょうか。だったら言葉以外の何で伝えることができるというのでしょう。私は天邪鬼なので、やっぱり言葉なのではないかと思ってしまうのですが。

 

先ずここで言っている言葉が散文だということをはっきりさせておきたいのです。散文は説明するときの言葉です。言い方を変えれば説明では伝えられないものがあるということになるのかもしれないのです。だったら同じ言葉でも詩に使う詩文はどうなのだろう。詩文は説明は散文にかなわないですが、説明でない分野では詩文のインパクトが散文に勝ることだってあるのです。

古代インドの数学や天文学は韻文で書かれなければならなかったということです。つまり詩として歌わなければ学問としても価値を認めてもらえなかったのです。古代インドの天文学の権威の方らから伺った話です。

また、ある宗教の開祖と言ってもいいほどの人が、自ら体験した霊界について八十八巻の大著で表しました。そのときの表現方法がとりわけ興味深く、八十巻までは散文で綴られたのですが、最後の八巻で霊界の奥義を述べる段になると、散文ではなく、和歌に変わったのです。説明ではない、和歌で歌いながら伝えたのです。いや歌でしか伝えられなかったのです。

名古屋でお世話になった保育園の園長先生は二万種に及ぶ歌を読んで亡くなられました。生前保育園の保育士さんたちに、「お知らせ帳は歌で綴りなさい」と言って、歌を奨励していました。歌にするとなると、くだらないことではなく、一番伝えたいことが言葉になるからだというのがその先生持論でした。しかしこれは実際に保育にあたる先生たちにとってはなかなかハードルの高いもので、誰もがすらすらと和歌が読める才能を持ち合わせてはいません。ただこういうことは保育士の養成の時にカリキュラムとして導入されたらすごいことだと思ったことはあります。保育士が歌を詠むことで、日常の文章を綴るようにでもなれば、教育に一大変革が起こるかもしれません。

 

もう一度言いますが、「言葉では言えないことがある」というのはなんなのでしょう。どういう感覚なのでしょうか。ここでもう一度考えてみてもやはり説明には限界があると同義のようです。

私たちの日常生活で一つだけここに紹介したい「言葉では言えないこと」の例があります。愛の告白です。散文的に「あなたが好きです。なぜならばあなたの美しさは比類がなく、・・・」と滔々と説明をしたとします。この告白は失敗に終わるでしょう。少なくとも日本では「そんな説明やめてください」と嫌われてしまうでしょう。もちろん和歌なり、俳句なりで伝えたとしても「気障、気取っている」と思われ不成功間違いなしです。ではどうしたらいいのでしょうか。そっと手に触れるとか、目と目を見つめ合うとか、極めて簡単な行為が一番効果がありそうです。

日本の詩の文化の中で一番短い俳句が今世界中で注目されています。今と言うよりも、もう二、三十年前から世界の俳句人口が急増しているのです。

短いと言うこと、その割には三つのカテゴリーが独立していて、最終的に極々少ない言葉で、計り知れない宇宙を表現できると言う俳句の力が、心を病んでいる人たちで、言葉にしたくないものを心に抱えている人たちにとって、絶大な力をはっきしているようなのです。ただ厳密に言えば俳句的というべきもの、あるいは俳句よりは川柳というにふさわしいものと、俳句の人からは厳しい指摘があるのですが、少ない言葉数というのが最大のメリットになっています。そもそも心が荒んでしまっていて、何も言いたくない人たちなのですから。

言葉で言えないことも頑張ればまだまだ言葉で言えそうな気がしてきました。

最後に、珍しい骨董、アンチークのフランス人形とかオルゴールを扱うお店のオーナーが、社員の研修の時におっしゃられたことを紹介します。お客様はどちらかと言えば珍しいタイプの人たちです。ですからマニアルの対応なとば以ての外です。オーナーが社員の方たちにおっしゃったのは「いい詩をたくさん読んでください。わかるわからないではなく、詩人の言葉のセンスの中で自分を磨いてください。それがお客様との対応の時に滲み出てくるのです」

芸術理解とは共感体験

2021年1月6日

芸術作品にとって必要なのは共感です。今日では新聞や雑誌で批評というものが制度化し、当然のように定着していますが、私は以ての外だと思っています。批評、批判などは芸術にとって百害あって一理なしです。芸術に客観的基準が入り込んできて、芸術が学問の一旦を担うようになって、何かが進歩したとでも言うのでしょうか。せめて理解までに留めて欲しいものです。理解も寄り添うような理解は大いに歓迎されていると思います。芸術作品だって一人ぼっちでいるよりも理解してもらいたがっていますから。

私はミヒャエル・エンデさんの言葉に深くうなづいた記憶があります。

私たちがコンサートホールで音楽を聞いてホールを後にする時、美術館で絵を見て美術館を後にする時、私たちは入る前より賢くなって出ることはないというのです。共感とか理解とは心情告白の一種ですから、賢くなることとは違うのです。せいぜい自分が生きていることを確信するところまでです。もちろん私たちの得意な「答えを出す」ことでもありません。絵を見ているときはただ見ているのがいいのです。余韻の中で何かを体験している、これが芸術にふさわしいものかもしれません。

 

今日の学校教育が教育という名のもとで行なっている教育を考えると、それは芸術を理解すると言うのと最も離れているもののように見えるのです。いつも答えを用意して、聞かれたら答え、それによって点数がつくわけですから、理解に必要なプロセスが備わっていません。更にそれを小さい時から何年も押し付けられたら、答えを出す人生しか知らなくなってしまいます。そして最後は自分の人生に答えを出して死んでゆくのでしょうか。私は未だ答えのでた人生などには出会ったことがないのですが。

理解とはまずは目の前にしているものとなんらかの取っ掛かりが掴めたときに始まります。自分でも気がついていなかった関心を呼び起こされるのです。ハッとする瞬間です。私が教育の中で一番濃い物と考えているのはその取っ掛かりが作られた瞬間です。その取っ掛かりさえ掴めるようにしてあげればあとは子どもの方で勝手に深めてゆきます。理解は深めるという言い方をしましたが、その関係が密になってゆく過程を楽しむことです。

芸術という分野は理解を深めるのに一番向いています。演劇なら舞台を見ているときに理解しなくてもいいのです。後日あれはそう言うことだったのか、と言うよう理解の仕方だって理解だからです。音楽も同じで、会場ではただ聞いていればいいのです。プログラムを一生懸命読んでお勉強をしても芸術というのは理解できる訳ではないのです。却って余計な知識が邪魔をして理解が妨げられてしまうかもしれません。絵だってただ見ていればいいのです。

ところがそういう理解の仕方は、今日の社会では認められていません。会社などではぼんやりしていると「きみ分かったのかね」と上司に怒鳴られてしまいます。イエスかノーの世界です。社会に出ればこう言うシステムの中で生きるわけなので、学校教育の中で社会の縮図を子どもたちに押し付ける必要はないと考えてはいけないのでしょうか。そんなことをしたら社会で落ちこぼれてしまうと懸念する声が聞こえますが、今の社会は何が起こるか分からない未知に向かっているのです。そこでは正しい答えはないので、想像力からの工夫が要求されています。それは答えを出して点数を競う教育からは作られない能力です。教育は芸術のように答えのない中で奔放でなければならないのです。

最後に余韻のことに触れたいと思います。余韻は簡単に言えば記憶の世界で、思い出の中に浮かんでくる舞台の光景に浸ることです。一度目の前から消えて思い出の中に浮かび上がってくるものは、当日見ていた時よりも鮮明だったりするのです。そしてそこに自分が必要としている生きる力につながるものが感じられたりするのです。もちろん極めて主観的なものです。

これが芸術的理解というもののような気がします。芸術を理解するには時間がかかるということです。しかしこの時間は外から見れば計かれますが、内側から見たら停止している時(とき)というものなのです。