2021年1月10日
一年の計は元旦にありと言い、初夢がそれに加わわって、お正月は師走に負けず結構忙しい時期のようです。
私は夢を見ないので、というのか覚えていないので、今年に入って今日までお話しできる夢が一つもなく、これ以上待ってはもう初夢とは言えないものになってしまうので、今年は初夢談議は諦め、一年の計は元旦にありの方の話をします。
我が家ではそんなことは言われた覚えがありません。結構大きくなって、小学校の高学年の時だと思います、学校で担任の先生がお正月休み明けに一人一人に元旦の計を聞いて回ったことがありました。自分の番が回ってくるのが辛くて、でも正直にそんなのありませんとは言えないので、どうしようと困った顔をしていたのを、先生に見破られた覚えがあります。その時は「ない人はないでいいですよ」とやんわりと躱わしてもらってほっとした記憶があります。
今年はどんな計を立てたかというと、今年からインターネットを通しての講演が増えるかもしれないので、聴衆なしの話し方を見つけることでした。
普段の講演会ではテーマはいただいてありますが、そのために資料調べるとか、専門書に当たるとか言った特別の準備はしません。大事なのはその場にあった話をすることです。そのためには、その場に立たない限り分からないのです。もう何度もやっている会場でもその日来る人は前回と違うので、毎回まずは雰囲気作りをして(落語でいう枕のようなものです)、そこでできた空気を読んで雰囲気に合わせるわけです。
ネットでコンピュターに向かって話すというのは、最近はスカイプで映像付きで話す機会が多いので、全く新しいということではないのですが、二時間を、一方通行で、しかも一つのテーマで話すというのはやはりなんらかの覚悟が必要になってきます。その「なんらか」がうまく掴めないと二時間がだらだらしたものにしてしまいます。どういう集中力で二時間を持たせるられるのかが今の課題で、そのための「いい準備ができますように」が元旦の計と言えばそれに当たります。
私の講演を「一筆書きのようですね」と言われたことが何度かあります。立て板に水のように話すともよく言われたのですが、一筆書きの例えには私自身「はっ」と驚かされるものがありました。もちろん話をする側として思い当たるものがないわけではないのですが、二時間を「一筆で話し上げていた」と言われるのは嬉しいものでした。ネット講演でその一筆書き、いや一筆話しが実現できればいいと願う次第です。ところがそのためにはどうしても暖かな聴衆が必要です。講演というのは一方通行のように見えますが実は聴衆からの力添えがあって成立しているものだからです。
講演会場は所変われば品変わるで色々ですが、まだ眠っている空間に立って話始めます。話すことで空間に変化が生まれるのです。ただの空間が時間のある空間に変わって行きます。話を聞いているうちにどこにいるのかを忘れるということです。私は空間が時間に溶けてしまうと感じています。聴衆だけではなく、私自身もその中に入っています。「一筆書き」というのは、この空間が時間に溶けたことの別の表現のような気がします。この変化は将棋で相手陣地に入った時に王様と金以外の駒は「なる」というシステムに従ってパワーアップできるのに似ています。実際には駒を裏返しにするだけですが、「なる」ことで働きはパワーアップするのです。講演会の体験が空間的なものから時間的なものに変わったというのは「なる」と同じようなもので、パワーアップしていると言えるのかもしれません。何がパワーアップしたのかというと、みんなです。聞いている方、会場そして私です。聞いている方が、話以上のものを体験しているということかもしれません。私が初めに考えていた話し以上のことが話せたということかもしれません。そして会場が始まった時と形は同じでも、中身の違う空間になっていることです。
2021年1月10日
どんな時も笑っていたいと思うのですが、なかなかそうはいかないもので、腹を立てたりしてしまいます。
最近はそれでも少しは回数が減ったのではないかと思います。思えば若い時にはもっと腹を立てていたようです。
心にはなぜ腹を立てるようなものが生まれるのでしょう。心はもっと穏やかなものが似合うのではないかと思うのですが、外を吹く風で波風が立ってしまうようです。
腹を立てると体に悪いと言いますが、本当です。怒こった後は食事がまずいです。味覚が働いていないようで、食べたものの味が全然わかりません。味覚自体は、おそらく正常に機能しているのでしょうから、味と言うのは味覚だけで味わうのでは無く、心にまで来て初めて味となるものなのかもしれません。脳生理学者だったら脳神経で説明するのでしょう。
心が穏やかな時の味わいは格別で、何を食べても「今まで食べたことがない」などと言いながら食が進みます。腹の空き具合と言うよりも、心の落ち着き次第で食欲が決まるのかもしれません。料理を作る時も同じで、穏やかな時には穏やかな味に仕上がります。怒っている時は、硬い角張った味がすると思います。
一人で笑っている人の姿は、独り言を言っている人以上に薄気味が悪いものです。笑えばいいと言うものではないようです。それに作り笑いというのも体に悪そうです。大昔の話ですが、友人が大手のデパートに就職して一年目、毎朝「いらっしゃいませ」と入り口に立って作り笑いをしながら丸々一年を過ごしたら、自律神経失調症になって入院してしまいました。すぐに良くなったものの、笑うというのを職業にするのも大変なものだとその時つくづく思いました。お笑いの芸人さんたちというのは相当特殊な神経の持ち主なのでしょうか。
何人かと一緒に心から笑えたら、心は和んで、緩んで、心だけで無く体も元気になります。怒っている時は体が冷えますが、笑っている時は体が温まっています。一緒に笑える仲間というのは、なんでもいえる仲間と同じくらい大切にしたい人たちです。
ドイツで生活していると、ドイツ人は日本人ほど笑わないかもしれないという印象を持ちます。真面目な人たちで、考えるのが好きなので、ことが起こる前から心配をします。そのため笑うよりも心配が優先してしまうのでしょうか。私は笑ったぶん人生で得をしたような気分になるのよく笑うのですが、ドイツ人には分かってもらえそうにない感覚なのでしょうか。
ある時関西で、結婚前のお嬢さんに「お相手さんは関東の人ではダメですか」と聞いたら、即答で「ダメです」と帰ってきました。なぜですかと聞いたら「笑うところが違うと思うから」という返事でした。その時、「そうか、笑うところが違う人と一緒にいたら、人生が変わってしまうかもしれない」と、関西と関東のちがいを痛感した覚えがあります。
皆さん、どうぞ今年もたくさん笑って、なんでも美味しく食べて、明るく、楽しくお過ごしください。
2021年1月8日
シュタイナーは人智学を「料理のレシピのように理解しないで欲しい」と言っているのですが、なるほどうまいことを言うものだと感心しています。
これを読んだとき、精神的なものにとっても油断するとレシピ的なものに陥りやすいと思いました。余程気をつけないとついやってしまいそうです。画一化と言うことです。
レシピの歴史は驚くほど古いものです。そもそもレシピという言葉は医者が薬剤師に渡した処方箋のことだったそうです。最近のセンセーショナルなレシピにまつわる話は百年ほど前のフランス料理のレシピの本です。フランス料理が世界的に広まったきっかけは天才的なフランスのコックさんが優れたレシピ本だったのです。それが大ベストセラーになったことで、世界中でフランスの有名コックさんの味が楽しめるようになってフランス料理が人気者になったのです。広めるためにはレシピが有効だという証です。
なぜシュタイナーはレシピを嫌ったのでしょうか。レシピはそんなに悪いものだとは考えられないのです。レシピは便利なもので、ある料理を初めて作る人間でも、レシピどうりにすればそこそこのものができてしまいます。例え日本食しか知らない人でも、フランス料理をレシピ通りにすればなんとかなります。もちろん材料を揃えたりするのは大変ですし、慣れない料理法と格闘しますからその時の台所の混乱は想像できますが、お皿の上にはちゃんと名前のついたレシピ通りの料理が運ばれてきます。
もしかするとシュタイナーは一人一人が自分の人智学を作るべきだと考えたのかもしれません。聞こえはいいですが、各自がそれぞれの人智学をと言うことになれば、それはそれで危険がいっぱいで、「我流の人智学』「片想いのシュタイナー」を作ってしまうでしょうから、「私の人智学」「私のシュタイナー」を振り回す喧嘩になることは必定です。
レシピ通りに人智学を理解するも危険なことですが、受験勉強のように答えを見つけるようにシュタイナーを学ぶことも画一化が生じる危険性を含んでいると考えています。そこに権威的な力が働けば、鶴の一声が通用するシステムの中で非健康的な人智学になりかねません。だからレシピ的な生き方は避けるべきですが、レシピ的でなく生きると言うのは容易では無く、豊かな判断力と、豊かなファンタジー、そして強い精神力がないと持ち堪えられないと思います。
シュタイナー教育の普及を考えるとレシピ的にするのが一番効果的なわけです。ところがシュタイナーはシュタイナー教育を他の国に作るには、その国にふさわしいカリキュラムを組まなければならないと言い反レシピ的な態度を表明しています。文化というのはレシピ的なのでしょうか、それとも半レシピでしょうか。伝統文化というものを外から見ていると、あたかもレシピ通りに受け継がれているものと思いがちですが、伝統文化ほどレシピに陥らないようにと努力しているところもないのです。お能は個人で練習したものを舞台に載せるのですが、舞台の上では毎回初演と言ってもいいアドリブになのです。毎回が伝統的な世界観に支えられた真剣勝負であり、四百年間アドリブでつなげてきたというのは驚異的です。もちろん個人的には極めつくすまで練習しているのですが、舞台では毎回初演のようなもので、即興なのです。その即興から生まれる緊張感が伝統をつなげてきた力だと思います。
世界は今グローバルという合言葉で経済中心の世界共通化が進み、民族、国家、そしてそこに根付いた文化を根こそぎにしようとしています。非常に危険なことです。人間から文化をとってしまったら、人間は枯渇します。枯れてしまいます。人々の顔から表情が消えてしまいます。人間を機械とみなすなら文化は余計なものですが、人間は機械とは違い、無駄に見えるものを栄養とする存在なのです。今回コロナ騒ぎでこの無駄がいかに人間生活に潤いをもたらし、精神的に支えていたものかがよく分かったはずです。人間の機械化が進めば、つまりグローバル化ですが、社会から無駄が省かれ、合理的に徹し、無表情なものの集まりになってしまいます。それこそレシピ通りの人間の集まった社会です。
教育は文化になるべきものだと考えています。教育と文化、この二つはどのようなつながりを持たせるべきなのでしょう。教育を優先的に考えるとそこではどうしてもメソードが表に出てきます。最近の教育は、私の目にはメソード競争のようなもので、表面的に見えるのです。教育の本質はメソードにあるのでは無く、教育という仕事に表情があるかどうかだと思います。教師と生徒の間に血が通っているかどうかということです。どの教育にも本来は顔があって、その顔から表情が生まれているのですが、メソードで終始してしまうと効率と能力が主流になり、無表情になってしまいます。ですから教育を文化論にしてしまいたいのです。せめて文化としての教育までに止めるべきです。文化だということは、無駄がた沢山あるということです。合理的な教育ほど危険なものはないということです。
日本にシュタイナー教育が紹介されてから四十五年が経ちます。実践に移されてからは三十年以上が経ちます。日本のシュタイナー教育という顔がそろそろ生まれていいのではないのでしょうか。それがとても楽しみです。