パンの話

2020年12月28日

ベイカリーというのは自分のところでパンを焼いで売っているお店のことです。シュトゥットガルトにそういうお店が何件あるのか詳しくは知りませんが、60万の人間が住む都市に数えるほどしかないというのは、信じがたいことです。

パン屋のほとんどがチェーン店という事です。

お店に入るとパン屋さんですからパンの匂いがするのですが、小さなオーブンが隅に置いてあって時々焼いているのです臭うのですが、実際には大元の工場でこねらられた小さなパンを焼いているだけの見せかけベイカリーです。

私が贔屓にしているベイカリーの旦那さんの焼くパンは素朴なパンなんです。「最近のパンはみんな薬品で焼いているからつまらないよ」というのです。詳しく聞いてみると、「今は100種類以上の薬品がパンには混ざっているんだよ」というのです。「パンの形をよくするためのもの、焼き具合がきれいになるもの、香ばしくするためのもの、カリカリ感ができるようにするものととにかくパンというよりは薬品の饗宴だよ」その話を聞いたときの事を今でもよく思い出します。愕然として腰が抜けてしまいました。

「俺の焼くパン、ただのパンだよ」というだけあって、本当に素朴なんです。でも最高のパンです。パンを口にするときに立ち込める、オーブンの中で焼かれたパン独特の香りはたまらなくいい香りです。気がつくと最近のパンからはこの深々とした焼き立てのパンの香りはしなくなっていました。

買ってきたパンの袋を開けると、プーンとパンの匂いが立ちこ込めるので、私はもっぱらこのベイカリーでパンを買います。気に入っているので他の人に勧めるのですが「形の悪いパンは食う気がしない」と言う人もいれば、「バンがぐにゃっとしているから嫌だ」と言う人とか、薬品で焼いたパンに慣らされた人たちには、ただのパンはつまらないパンのようなのです。

でもこの傾向はパンだけではなく、生活のほとんどの分野に浸透している社会現象です。純粋なものがだんだん貴重になっています。

贔屓のベーカリーのご主人も心の中で仕事じまいを考えている年齢なので、そろそろ自分でパン焼きを始めようかと真剣に考えている今日この頃です。

マイクロフォンの話。私の録音したスタジオではノイマンのマイクでした。

2020年12月23日

今日はのんびりとマイクロフォンの話をしたいと思います。

 

私がライアーの録音をする時に使うマイクはドイツのノイマン社のマイクです。ノイマン氏が作った第一号が1928年に作られ、その後改良がされ1935年の製品はいまだに最高高級なコンデンサーマイクとして業界では有名です。私の使用するノイマンは1950年代のものです。

こう書くと年代物のように聞こえます。自動車だったらミュージアムに飾ってあるようなものです。しかしオーディオの世界では1920年代に優れものが作られ、今でもそれを凌駕するものが作られていないともいえる不思議な現象が見られます。

ここにあげたノイマンもその一つですが、アメリカで当時電信電話局のために作られた真空管は今でも最高のものだそうです。

もちろんこれらは今でも手に入る製品だと言う寿命の長さが品質の良さを感じさせます。古くなっていないんです。

 

マイクの場合、音を拾う感度だけで言うと最近のマイクの方がいいと言う人もいます。ところが、音という音をなんでも拾ってしまうのは当然雑音も拾ってしまうので、却ってマイナスで、数値化される感度だけではマイクの良し悪しは決められないのだそうです。マイクの様々な性能はデーターとして数値に表されます。それは間違ってはいないけれど、参考にする程度のものです。大切なのは中声部の安定した音をしっかり再生することなので、それは数値に表されないものなのです。

 

ノイマンのマイクは音の解像力が素晴らしく、このマイク二本を天井から吊るしてオーケストラを録音したレコードがディスク大賞を取ったことがあるほどです。普通は十数本のマイクを舞台の至る所に設置して、そこで拾った音をミキシングという装置で混ぜ合わせて人工的に作り出された臨場感で音に仕上げます。ノイマンの二本のマイクからは会場に存在していた実際の臨場感溢れた音が録音ができるので、天井からの二本吊すだけで十分なのです。モノラルの時代はマイクは一つでした。日本はステレオ効果のためです。

 

私が録音する時は、マイクが目の前に上から降りてきています。ライアーのすぐ上で直接ライアーから出てくる音を直に録音します。楽器から生まれた音をすぐに拾うのです。こうして録音された音は想像以上に深くて、初めて聞いた人は私が録音に際しエコーを入れていると考えたほどです。エコーで作った音は全く別物です。一番の違いはまず音が濁ります。濁っている音は煩くて長く聞いていると耳が疲れますから長くは聞けないものです。ノイマンで録音した音は実に透明です。まるで録音しようとする音の本質を聞き分ける耳を持っているかのようです。

 

私が録音したスタジオは普段はナレーションの録音が主な仕事です。ノイマンのマイクで録音された声の美しさは格別です。深々しく、しっとりした声で録音できます。解像力の優れたレンズで撮られた写真のように、潤いがあるのです。声の深み、膨らみ、響きの豊かさが全く違うのです。ほぼ100年前に作られたマイクがいまだに世界一というのは信じがたいものですが、残念ながら事実なのです。技術は改良に改良を重ね発展したということになっています。ところが、ノイマンのマイク例が示すように、必ずしもそうとは言い難いものもあるのです。

 

 

私がご贔屓にしているYouTuberにこのノイマンのマイクで録音している人がいます。本当に艶々した声がYouTubeから聞こえて来たときはどうしてこの人の声はこんなに綺麗に拾われているのだろうと不思議でしたが、あるとき彼が自分で使っているマイクの種明かしをした時に、ノイマンの真空管のマイクだと聞いて、さもありなんと納得したのです。

 

もし皆さんの中にYouTuberになろうと考えている人がいたら、ノイマンのマイクで録音することを考えてはいかがですか。値段は少々張りますが絶対におすすめです。

ジャクリーヌ・デュ・プレというチェロ奏者

2020年12月21日

私が尊敬してやまないチェロ奏者、エマヌエル・フォイアマンの偉大さについてはすでに何度か取り上げていますから、今日はジャクリーヌ・デュ・プレ(1945-87)という若くして亡くなられたイギリスの女性チェロ奏者について語ってみたいと思います。多発性硬化症という病気に苦しみ42歳で惜しまれながら亡くなります。奇しくもフォイアマンと同じ寿命を与えられた命でした。

デュ・プレの演奏を聞くと、すぐにそれが彼女の演奏だとわかります。耳で聞いてわかると言うよりも体が震えるからです。そしてしばらくすると目頭が熱くなります。彼女が紡ぎ出す音は、まるで「夕鶴」の鶴が自らの羽根で糸を紡いだようだからです。デュ・プレの息遣いが、声が聞こえてくるのです。

技術的にも突出した演奏家でした。確かに技術面で優れているわけですが、技術面で言えば同じくらいの力量の持ち主は何人かいます。その人たちはいずれもが名演奏家、巨匠として高く評価されている人たちです。しかし私にとってデュ・プレの音は名演奏家の範囲を超えて特別です。音符が音になっているところまでは同じですが、その先で何かが起こっています。この何かが他の演奏家と一線を画すのです。音と対話していると思っています。ただ対話の時間はほとんどゼロに近い時間です。そこがコメントや解釈と違うとこめです。そのゼロに近い時間を知っているかどうかと言うことだと思います。天才というのはそのゼロ時間を作り出せる人だと思います。

 

どうしたらフォイアマンやデュ・プレのような演奏が学べるのでしょう。ゼロの時間空間を作れるのかと言うことです。音楽大学にゆけば学べるのなら毎年何百人と言う奇跡の演奏家たちが生まれていることになりますが、そうではないようです。どこでどのようにしたら学べるのでしょうか。

練習や努力の賜物ではないのです。地上的、物理的な環境の中だけでは無理だということです。思い切って「精神的」という言い方をします。ここでは心理的という意味は全く含まれていません。きっぱりと「精神的な世界」あるいは「霊的な世界」です。

フォイアマンの事を言いますと、彼は練習が嫌いでした。練習すると下手になるという言い方もしています。普通では言えないです。彼曰く、演奏が硬くなってしまうのだそうです。私の絵描きの友人が同じように、「絵は描きすぎると硬くなる」とよく言います。ギターのセゴビアもお弟子さんに「技術に振り回されて弾きすぎるな」と戒めていたそうです。これらのことが言おうとしているのは物質空間での努力に振り回されるなと言うことです。それを超えたものがある事を留意しろと言うことです。

楽器演奏に練習で築き上げた骨組みは必要です。ここがしっかりしていないと骨なしの演奏になります。ところが演奏はそこで終わるわけではないのです。演奏が上手というのはまだ物質的なレベルなのです。ではその先はゼロの時間空間です。練習では得られない上達があるのです。練習からでは獲得できない上達です。練習で積み重ねてきたものがゼロになる瞬間です。

 

話が少しずれますが、陸上競技の百メートルと走り幅跳びで最も多くメダルをとったアメリカのカール・ルイス選手は、大事な試合の前になると練習を早々引き上げて、障害者たちの施設とか、老人ホームに慰問に行ったりしたそうです。そこで無邪気な人たちと出会うことで、頭に凝り固まった邪念を取り払い体をほくしていたと言われています。

演奏も邪念が邪魔をします。邪念は大抵欲です。以前よりもっと上手にと言うような欲です。こうしてみると、スポーツも楽器の演奏と似ているところがあります。ただスポーツは勝ち負けにこだわるところが音楽とちがっていると主張する人がいるかもしれませんが、実は音楽の世界にもコンクールという落とし穴があります。勝ち負け勝負の世界です。とすると、音楽とスポーツ、もしかするとそんなに変わらないことになっているのかも知れません。

上達のための方法はもう、指の練習の中などにはなく、頭を空っぽにすることです。そして、体をほぐしておくことです。もちろんそれだけではまだ精神的ではありませんが、そうなって初めて得られるものがあります。それが霊的で精神的なのです。直感です。インスピレーションです。これは向こうからやってくるものです。

考えたことだけをやっていたら四角四面の硬い演奏になってしまいます。音楽に技術、練習の成果なんか聞きたいわけではなく、インスピレーションに満ちた、想像を絶するワクワクするものが聞きたいのです。それは上手いとか下手とかとは違うところにある宝です。

 

カール・ルイスが障害を持った人たちや老人たちの無垢を必要としたというのが最近よくわかるようになりました。私たちは、時々、無垢に接したり、無垢に囲まれたりして、無垢に満たされたがっているんです。私が音楽に聞きたがっているのも実はこの無垢だったのです。この無垢が音になる時演奏者の存在が鳴り始めます。息遣いが聞こえてきます。これこそが演奏の醍醐味です。音楽を通して一人の人間に出会えたと言う実感があります。この手応えは人生の糧です。

フォイアマンやデュ・プレの音楽が無性に聴きたくなります。この無垢を感じたいからなのかもしれません。

彼らの存在に寄り添っていたいのです。存在は温もりです。人間の存在という秘密に出会えるから音楽を聞くのです。