ハイドンの不思議

2020年12月17日

クラシック音楽の中でハイドンは「パパハイドン」と呼ばれ、楽天的、能天気などと言われています。ウィーン生まれ、ウィーン育ち、そしてウィーンで亡くなった生粋のウィーンの作曲家です。

私たちがイメージする芸術家タイプというイメージより職人に近いものを感じます。交響曲が百以上もあります。モーツァルトの倍以上、ベートーヴェン、ブルックナー、マーラーの十倍以上の数ですから、大量に作曲されたような印象を持ってしまいます。さらに音楽は非常に清楚でシンプルなので、ベートーヴェンに代表されるような音楽における深刻さとは全く無縁の作曲家です。深刻さは十九世紀のお家芸ですから、のびのびとした十八世紀を生きたハイドンには無縁の空気だったわけです。ハイドンのもつ調和も特筆すべきです。ドイツの文豪ゲーテは「理想的に調和した会話」とハイドンを褒め称えています。

 

私はシンプルを大切なものに数えていますから高く評価しているので、シンプルの何が悪いと言い返したくなります。ドイツの指揮者フルトヴェングラーは、ハイドンの清楚なシンプルさを「恐ろしいほどシンブルだ」といって高く評価していたということです。指揮の世界の頂を制した人の言葉ですから深みがあります。

私は若い頃にモーツァルトの音楽に出会い、吸い込まれるようにのめり込んでモーツァルトばかり聞いていた時期があります。その時にハイドンの音楽とも出会っていたのですが、ハイドンにのめり込むようなことはありませんでした。血気盛んなころにハイドンは物足りなかったのだと思います。むしろベートーヴェンの方をモーツァルトの合間に聞いて興奮していました。

若きモーツァルトは親子ほど歳の違うハイドンを師と仰ぎ尊敬していたことはよく知られています。六曲からなる弦楽四重奏をハイドンに献呈し、ハイドンからも絶賛されています。今でもその六曲はハイドンセットと呼ばれ、モーツァルトの弦楽四重奏の中で演奏される機会が多いものです。モーツァルトはハイドンの影響を受けていますから、随所に共通するところがあるのですが、作曲技法的なもののようです。私にはモーツァルトはベートーヴェンの音楽との共通性の方に興味があります。モーツァルトはベートーヴェンの生みの親だと思っていますから、音楽理念はモーツァルトとベートーヴェンを並べてもいいと考えています。

モーツァルトに出会い。ベートーヴェンをつまみ食い、その後シューベルトの音楽の中を思う存分泳ぎました。マーラーの音楽に興奮した時期もありました。ヘンデルの壮大な音作りに魅了されたりしながら、年齢が増すとだんだんハイドンに近づいているのか、ハイドンが近づいてくるのかわかりませんが、ハイドンをよく聞くようになったのです。聞いているとホッとして、難しいことを考えずにのんびりとハイドンの音楽に耳を傾けるのです。実に清々しい音楽で、またすぐに聞きたくなるところがあります。「自分でもこのくらいのものなら作曲できるのでは」と思うのは間違いです。ハイドンのシンプルさは「恐ろしいシンプルさ」です。一見簡単そうに聞こえるのですが、素人芸とは雲泥の差のあるもので、まさに高貴な職人芸と呼びたくなるほどの洗練さがあります。

 

私が今までリリースした六枚のCDの中にハイドンの曲は入っていません。もちろん嫌いだかではないことはここまで読んでいただけたのでお分かりだと思います。だんだん好きになっているのでここらで是非ハイドンの曲でもと考え、好きな曲を聴きながらライアーで演奏したらどうなるかなぁーと思いを巡らせるのですが、「これはライアーに合う」というインパクトは今のところないのです。シンブルだからライアーと相性がいいのかと思いきや、案外ライアーとは反りが悪いようです。

ライアーとハイドンを重ね合わせながら、これからもいろいろと思いをめぐらせて行きたいと思っています。もしかしたら意外な発見があるかも知れないと期待しながらです。何とか編曲してハイドンをライアーで弾いてみるのですが、まだまだうまくいきません。つまらないのです。もちろん編曲を工夫すれば違うのかも知れませんが、今のところはハイドンをライアーで弾くことは半ば諦めています。しかしこのシンプル同士、なぜ合わないのでしょう。

 

ハイドンは西洋音楽にいや顔うにも付き纏っている自己主張がありません。そこをゲーテは調和という言い方で見抜いていたのだと思います。この気質はシューベルトに引き継がれていったように感じます。シューベルトも生粋のウィーン人でしたから、個性というよりはウィーン気質なのかも知れません。いずれにしろ珍しく自己主張がない音楽で、空気の中に消えていくようです。

何の根拠もないのですが、ハイドンのシンプルさと日本人のシンプル好みは随分違うものですが、シンプルを好むことに関しては共通しているように思えてならないのです。しかも自己主張がないところもハイドンと日本人には共通性を感じます。日本の音楽家たちが西洋の人を模倣するのではなく、日本人として日本人の感性でたっぷりとハイドンを演奏したら、ハイドンの聞こえざる宝が聞こえてくるのではないかなんて考えるこの頃です。

 

お勧めの作品

チェロ協奏曲の二番ニ長調です。

この曲はビロードのようなしっとりした曲で、どこにも張ったりじみたものや、自己主張の角がなく、ハイドンのいいところがいっぱい聞ける一品です。

エマヌエル・フォイアマンの演奏がお勧めですが。同じくらいお勧めはジャクリーヌ・デュ・プレのチェロとバルビローニの指揮するロンドン交響楽団の演奏です。今年の八月にYouTubeにアップされていました。YouTubeで聞ける最高の演奏です。他の演奏からは残念ながらハイドンが聞こえてこないのです。

 

なぜ人は物語が好きなのだろうか

2020年12月15日

お話しは聞いていて楽しいものです。日常会話では起こったことを話しているので作り話はご法度ですが、映画館や寄席に多くの人が行くのは、本当では無いと分かっている話をワクワクして見たり聞いたりするためです。

小説家、童話作家、映画のシナリオ作家、落語や講談などの作者は作り話をでっち上げて上手に物語にしているのですが、誰もそれに腹を立てないのはなぜでしょう。嘘、でたらめ、でっち上げと分かっていても、聞いているとまるで本当のように聞こえてくるのはなんとも不思議です。物語るという手段、つまり嘘のことですが、それがなかったら人生の半分以上が干からびているかも知れません。以前にレンブラントの自画像展を見に行った時、美術館に見に来ている人の顔よりもレンブラントの絵の顔の方が真に迫っていて本物に見えたことがあったのですが、その時の狐に摘まれたようなのも似ているかも知れません。

 

前回のブログで音楽の演奏のことを書きましたが、演奏が楽譜通りであれば、音楽は無味乾燥で、干からんでしまうことに触れました。同じ作品も演奏者によって違うのは、そこに物語を作り出すという作業が加わっているからだとも言えます。解釈という上品な言い方もありますが、いずれにしろそうした味付けがないと薄っぺらな演奏なのです。そこのところを私のブログではイメージという言葉で説明しましたが、物語ると言ってもいいわけです。一つの音楽作品が物語になるかどうかは演奏家の力量次第です。この力量、なかなか眉唾なものかも知れません。

音楽もそうですが、一般に話し上手の人の話は聞き惚れてしまいます。あっというに時間が経っているのに驚かされることがしばしばあります。内容的には同じことを言っていても話し下手が話すのとは大違いです。どうしてこの違いがあるのか考えてみると、物語る力の有無にあるようです。私の独断ですが、話下手には堅物で、正直者で、嘘がつけないタイプなのではないかと思うことがあります。物語は結局は作り事ですから嘘と言ってもいいわけです。話し上手は嘘がうまく法螺吹きで、話し下手は嘘がつけない正直者なのかも知れません。

 

 

ところで嘘はどこからやって来たのか、気になります。未だ決定的なことを言い切った人はいないようです。ユヴァル・ノア・ハラリのホモサピエンス全史でも嘘の起源は保留していたように記憶します。

私は嘘は副産物ではないかと思っています。なんの副産物かというと、思考力のです。人間が考える能力を発展させる時に生まれたものと考えてはどうでしょうか。思考力は二つの側面を持っているのです。

今日世の中に蔓延している嘘の中で社会的に影響のある嘘はほとんどが、いわゆる知識階級、ホワイトカラーに属する人たちのものです。高学歴で、知的な人たちで、頭がいい人、思考力のある人たちです。そのため非常に狡猾で、よく考え抜かれている嘘が多いです。そこに騙されないためにはその裏を見抜く必要があります。よく言えば知的遊戯ですが、思考力がそこで鍛えられているとも考えられます。

もう一つは権力欲です。権力そのものは社会に存在する動かせないものでしょうが、それを欲する欲望が嘘を編み出すように思うのです。ファンタジーという言葉には二つの意味があります。一つはいい意味での想像力です。もう一つはよくない意味で、黒魔術に近いものです。欲望が働くと本来はいいものが豹変します。もう一つの嘘の出所は欲望と言っていいのではないのでしょうか。欲望がらみの嘘は悪意に満ちています。その嘘は思考力を鍛えるどころか、欲に眩んだ人類は我が身を滅ぼしてしまいかねません。

 

嘘は克服できるものなのでしょうか。

シューベルトのピアノ三重奏、二番、変ホ長調、作品100、D929

2020年12月12日

今日はぜひ皆さんにも聞いていただきたい音楽があるので書いています。表題になっている作品です。難しい音楽論はやめて、いい演奏があるのでそれを紹介します。

Schubert, trio, No.2, Op100,Andante con moto|Ambrioise Aubrum, Maelle Vilbert, Julien Hanck

YouTubeで見つけたフランスの若手の三人によるこの演奏に、私は釘付けになりました。この動画で聞けるのは第二楽章だけですが、この三人の若い演奏者の演奏に耳を傾けてみてください。

 

音楽について書くのは案外難しいもので、このブロクはきっとまとまりの無い、本当の意味での独り言(ブログ)になっているかも知れません。

 

いい演奏とかよくない演奏とかいいますが、何んのことを言っているのでしょうか。大抵の場合、演奏技術というのはそこでは問題外のことがほとんどです。

簡単にいうといい演奏とは溶けるような演奏だということです。溶けるというのは作品が演奏者と一つになる、一体化するということです。前回、前々回のブロクでは意志のことを取り上げました。意志の大きな働きは出会うということだと書きましたが、音楽としっかりと出会っているのがいい演奏だということです。この演奏を聞いているときにこの三人の演奏は意志というテーマにぴったりなような気がしたのも、この演奏を取り上げた理由です。

特にチェロの音は久しぶりに角のない丸い音で、チェロが語り、チェロが歌います。私が驚いたのは、演奏者がしっかりとしたイメージでこの音楽に向かっていることでした。まるでイメージそのものが演奏しているかのようです。イメージなしでは丸みを帯びた豊かな音は生まれないのです。クラシック音楽は楽譜を用います。ところが楽譜を演奏するだけだと音は硬くなります。音楽をイメージすると音が丸くなり説得力が深くなります。この違いは決定的です。いい演奏を聞いていると脱力してゆったりしてきますが、聞き手も演奏者と共にイメージの中で音と共感し、同化してしまうからだと思います。音符で音楽を教えられてしまった私たちにはとても遠い世界です。

また演奏がパフォーマンスになってしまうと、音楽と演奏者の間に必ず距離が生まれるようです。イメージからの仕事ではなく、あたかも音と一つになっていますという見せかけだからです。不自然なもので聞いていて疲れます。

音楽会では生演奏というオーラに包まれてしまいます。独特の雰囲気です。そのオーラの中で音楽と一つになりますから、いい演奏かどうか判断しかねることが多いです。ようやく家路に着く頃に、今日はいい音楽会だったとか、今日のはまあまあだったという感想が出てきます。あるいは一晩寝て次の朝、思い出して喜んでいる演奏会があったりします。音楽会というのは、難しいことを考えずに演奏を楽しんでくればいいのだと言えるかも知れません。

 

フランスの若手の三人の演奏はすでに何十回、いや百回位聞いていますがまだ飽きていません。それがイメージから生まれた音楽であることの証だと思っています。ゆったりと心に染み込んでくる含みのある音を聞いていると、飽きるとは逆で、また聞きたいというふうになります。