2020年11月16日
私は易しいとか難しいとかを考えない方です。考えて易しいか難しいかが決まることはないからです。基準がどこにあるのかがよく分かりません。
それから、一般的に言われている「易しい」というのが本当に易しいことなのかは、今までの経験からして大いに疑問です。
私が易しい難しいで気にしているのは別の観点です。人前で話すときに、分かり易く話す人と、話を難しくする人がいると言うことです。そのことにまず触れておきたいと思います。
ドイツでの生活が始まってしばらくした頃です。ドイツ語が随分聞き取れるようになったので、勇気を出して講演会というものに出向きました。意気揚々で出かけた講演会初体験は挫折でした。何事も経験です。またしばらくして再挑戦しました。その時には、言葉の問題はずいぶん克服できたのに、話の筋を追ってゆけないという、狐に摘まれたような体験をしました。実は初挑戦の時も、ヴォキャブラリー的にはある程度分かっていたのに、何となく理解できなかったのです。その時は原因は自分の語学力にあるのだと結論したのですが、二回目の挑戦で分かったのは、ヴォキャブラリーの問題ではなく、話の筋の作り方について行けなかったということだったのです。その後のいくつかの経験で言うと、ドイツの人は話を難しくして楽しむ傾向が強いと言うことです。
個人的にはドイツ哲学のように複雑に構築された思考の遊戯は好きな方ですが、それは文章として、考え考え読んでいる時の話です。まるで何百もの歯車が精巧に入り組み、組み立てられいる時計のようなもので、そこにはそれなりの美しさがあります。その美観から言葉以上のものが感じられるのです。とても芸術的です。
話し言葉で何かを伝える時は別で、簡潔であることと分かりやすいことが命です。よくわかっている人ほど話がよく分かります。なまじわかっている人の話は聞いていてイライラします。演劇の言葉は特にデリケートです。聞いた瞬間に状況が見えてくるような言葉が求められます。その意味でシェークスピアは天才です。しかしシェークスピアが単純明快で分かり易いのかと言うとそんなこともなく、くどくどした言い回しが結構あるのですが、それでも不思議と分かるのです。ここがシェークスピアの不思議で、天才と言われる所以です。私は日本のお能にもそんなところがあるように感じています。分かりにくい言い回しが却って分かりやすかったりするのです。理屈ではなく、直感的に分かると言うことなのでしょうか。
そう言う生きのいい言葉が少なくなっているように思います。ドイツでは昔の哲学の本を現代人が読めなくなっていると言うので、現代語訳がなされていて、今風の簡単な言葉に翻訳されるのですが、それで分かり易くなったかと言うと、必ずしもそうではないのです。ここは大事なところです。話の内容が正しく伝えられることは第一の課題なのですが、分かり易くと言うことで、内容的に少しずれたりしてしまうこともあります。言葉だけを取り上げれば間違って訳されているわけではないのに、文章に手を加えると話が違う方に持っていかれてしまうということです。そうなると分かり易くと言うのが却って仇になり、余計なお節介ということになってしまいます。それでは本末転倒です。易しいからいいのではなく、また難しいから分かりにくいかというと、一概にそうとは言えないのです。すごく矛盾した話です。
今大雑把に結論すると、内容を深く理解していて、伝えようとする意志が強い人の話ほど、分かりやすいと言うことです。
これは人生の多方面で言えるもので、料理なども本当にできる人の料理を見ていると簡単そうで、すぐに自分でできそうだと錯覚してしまいます。職人さんたちの仕事はだいたいこの点で共通しています。できる人の仕事は手際のいいものです。
最後に難しいものを挙げると、外国語の習得はみんなが難しいと思っていると思います。外国語の勉強では初心者にとっては全てが難しいのです。打開策は、いち早く自分で分かったと言えるものを見つけることです。そこを手がかりにすることが上達の早道かもしれません。
特にネイチャーにとって簡単なものほど、つまり生活に密着した言い回しなどは、外国人には難しいという、反比例のようなことが起こっているのです。外国語を勉強しているときに、その言葉でジョークが一緒に笑えるようになったら一人前だと考えていいと思います。ネイチャーがすぐに大きな声を出して笑えるものほど外国人には難しいのです。
難しい、易しいはいずれにしろ判断の基準のない不思議なもののようです。私たちはこの間を右往左往しているのです。
2020年11月4日
ライアーの演奏に関してお手本にしたことはなんですかと聞かれた時、一瞬どっちの方から答えようかと迷います。どっちと言うのは二つある中からの選択なんです。精神面と技術面です。
ライアー演奏を精神面で鍛えるなんてオーバーですが、ライアーの演奏そのものを安定させると言うことです。どんな曲を弾くにしても、安定感は同じに要求されていますから、そこに乱れがあれば、曲の出来具合に影響します。速い曲もゆっくりな曲も、安定していないと聞くに耐えないものになってしまいます。
ライアーは表現を目的とした楽器ではないので表現の解釈云々よりも、演奏する時の心の安定の方がライアーという楽器をよく響かせ、聞き手にも届きます。
エマヌエル・フォイアマンとスヴァストラフ・リヒテルが色々な状況で精神的に支えてくれました。チェロとピアノと二人が演奏した楽器は違いますが、共通しているのは音楽を単なる表現の道具にしていないというところです。一つ一つの作品が持っている根幹がこの二人からは聞こえてきます。私はあえて音楽の骨相学という言い方をしていますが、表情づけとかテクニカルなというのが表面的なものに見えてくる、芯の部分が聴ける深い演奏です。今日の効果を狙った装飾的な演奏が好まれる時代には「退屈な」という言い方がされてしまうものかもしれませんが、ものの本質はいつも淡々としていて静かなものです。その静けさからの音楽が私にとっての音楽なので、ライアーでもそういう演奏をしようと心がけています。
そのためにいつも演奏するのがヘンデルの羊飼いのためのシンフォニーです。私が一番初めのCDの一番初めに選んだ曲です。シンプルな曲想の中に緊張感が隠されているヘンデルならではの曲です。オーケストラのための曲をライアーに編曲したものですが、ライアーに本当によくあっていると思っています。伸び伸びとした音のつながりなどライアーのいいところを存分に引き出してくれるのです。カザルスが毎朝ピアノでバッハの平均律一番のプレリュードを弾いて一日を始めたと書いていますが、私もライアーの弾き始めにはこの「ピファ」と呼ばれている、羊飼いのシンフォニーを弾きます。
技術的な面のことは、話をわかりやすくするために楽器を例に取ります。リュート、ギターそしてチェンバロです。皆弦をはじく撥弦楽器です。チェンバロはギター、リュートと違い、指ではなく人工的に作られた爪ではじきます。
先日クープラン のチェンバロ曲を聞いていて、何度もため息をついてしまいました。バッハの鍵盤曲もオリジナルはチェンバロのものですが、最近はほとんどがピアノで弾かれています。現代人の耳はそれに鳴らされてしまったのか、ピアノで聴く方が自然に聞こえます。ピアノはそもそもピアノフォルテと呼ばれ、音のダイナミズムを拡大したことが売りでしたから、表現を豊かにする楽器です。クープラン のチェンバロ曲はピアノで弾く方もいますが、ピアノだと滑らかすぎます。チェンバロは強弱の幅からしたピアノにはるかに及ばないものです、二種類しか音量を選べないのですが、チェンバロの音が持っている炸裂するような緊張感はピアノからは得られないものです。クープランはチェンバロで聴くべきです。
チェンバロの音は直立していて、踊るような動きです。ピアノはレガートで歌うようなところが気持ちよく、滑らかであり、激しくもありと表現のためのコントラストはチェンバロの比ではありません。しかしチェンバロの音には凛々しさがあります。
それは弦をはじくことから生まれるものだと思います。ピアノはハンマーで弦を叩きます。その意味ではギターもリュートもチェンバロに近い物を感じますが、指で直接弦に触れるという利点はチェンバロにはない特徴です。特にリュートは指の腹で弦を弾きますから、ライアーに限りなく近いと言えます。ポール・オデットの演奏はいつも参考にしています。
ギターではセゴビアの深い音に感動します。最近はギターの製造方法が少し変わってきていて、共鳴板に工夫を凝らし(ダブルトップと呼ばれています)、よく響くように作られています。しかし楽器が良く響くようになる、表現力が広がるというのは、一つの利点ですが、音楽の本質とは離れていると思うのです。そんな流れにあるのと関係するのか、最近は女性ギターリストが数多く台頭して新たなブームですが、そういう人たちの演奏からは刺激を受けるものが見当たりません。
この質問にあえて教則本的な書き方でなく、ライアーの音の楽しみ方を意識して書いてみました。
2020年11月4日
先日のポジティブについての文章を書いた後、もう少し補足したいという気持ちになり、第二弾です。
私たちは物を買うことが主流の消費文化を生きています。それは容易に崩せるものではないと思うのですが、作る文化が復活すると私は信じたいのです。どんなものでしょう。
物作りと聞くと、みんな忙しくて時間がないと言います。作る文化にはお金もですが、何より時間が必要なんです。ところが、お金ができて、時間ができれば作る文化が復活するかというとそんなことはないようです。ちなみに時間と言うのはあるかないかでは語れなくて、作るか作らないかのものなのです。
今回のコロナ騒ぎの中、多くの識者たちがYoutubeで読書を推奨されていました。中には源氏物語をぜひ読まれてはというのもありました。とてもいいことだと思いました。ところが現実は、増えたのはテレビの視聴率と、ネットのクリック回数だということです。問題はやはり時間ではないようです。
ポジティブであるというのは、とにかく肯定的でいるということです。それを貫くことです。日常的には自分を含め周囲をおおらかに受け入れ、絶対に文句を言わないと決めるのもいいかもしれません。
三島由紀夫が「人を褒めるというのは実はとても難しいことだ」と書いていました。「批判するのは簡単だが褒めるのはレベルの違うものだからだ」という内容だったと記憶します。褒めると言うのは必ずしもポジティブにつながらないですが、ポジティブの仲間です。褒めるとき地に足がついていない褒め方をするし、何かにつけて不平不満に偏ってしまうのが私たちです。レベルが低いからです。ここ何百年かの間に染み付いた人類的な悪習ですが、そこに甘んじていては何も始まりません。人類的にレベルアップが必要だと言うことかもしれません。
自分を肯定するというのは、自分を立ち上がらせる力、立たせる力に似ています。大きな木の幹のようなものです。札幌から旭川に向かう途中に原生林を残したところがあります。開拓の時に全部を伐採してはいけないと叫んだ有志の働きかけで残されたところです。そこを歩いていた時にまだ人間の手によって邪魔されていない原始の自然のままを生きている木は、喜び歌っているようで、歌声が聞こえるようでした。木が立っているというのは喜びの姿だとその時知りました。
喜ぶには元気でないとダメだということはみんな知っています。病気だと喜べないのです。顔に笑顔が蘇ってきて、血の気がさしてくればすぐに回復します。逆に起こりっぼくなっているのは病気からの警告です。
喜べるというのは喜怒哀楽の問題ではなく、心理学的な問題でもなく、その源泉を辿ると「生きる」という根源的なところに帰ってゆくのです。ポジティブというのはそういう中で生まれ生きているものです。
ボジティブが失われた時代は、喜びも失われています。顔に活気がなくなっています。喜びが少なくなるとそれに並行して真面目くさくなります。真面目くささが増すと批判的になりますから、あの悲しい悪循環の始まりです。
レベルアップを心がけなければならないようです。