新しい出発 その一

2020年12月4日

今年も最後の月となりました。いろいろあった令和二年です。

今年を振り返りながら去年にまでさか戻ってみると、この二つの年がまるで違うことにびっくりします。一年という時間の流れは同じでも中身がこんなに違う年になるなんて想像したことがありませんでした。何が違うかって、要因はいくつかありますが、人生から受け取れる喜びが違います。何が人生の喜びかは、何を幸せと思うかと同じで人それぞれですが、今年と去年では、喜びの絶対量がまるで違います。

去年と一昨年は比べようがあります。よく似たものです。物価は少し上がったかもしれません。失業者も少し増えたかもしれません。大きく違うのは外国からの旅行者が飛躍的に増えたことですが、基本的には大差はないのです。ところが今年と去年の違いは異常です。これほどの変化は経験のないことです。一瞬にして立っている舞台が変わってしまいました。舞台の大道具や小道具が変わったということならまだしも、別の舞台の上に立たされているのです。

人生教訓というのはいつの時代でも同じように役立つものかと思っていました。ところが去年までの人生教訓は今年はあまり役に立たないと感じてしまいました。世代が違えば考え方が違いますから、そこに人生教訓のずれを感じることは今までにもありましたが、今年は一夜にしてと言っていいほどのスピードで何もかもが変わってしまったので、このスピードについてゆけずに混乱が生じ、それがストレスになっています。

 

この混乱を乗り切るために、専門家により様々な助言がなされていますが、それはテクニックの問題ですから、しばらくすると役に立たなくなります。何が必要かというと新しい世界観です。私たちが身を預けられるような安らぎの場所としての世界観です。

私たちライアーゼーレは2007年以来ライアーで心に静けさを届ける努力をしてきました。世の中がざわついていると感じたから、せめて心に静けさが齎されればと考えたのです。そこから生きる勇気を汲み取れたらと願ったのです。ライアーの音色にはそのための力があります。しかし今、静けさだけでは十分でないように思えてなりません。私たちは訳のわからない新しいステージに立たされているのです。それは前代未聞のステージです。このステージに立っていると聞こえてくる情報が気になります。情報はそもそも人生を豊かにしてくれるもので便利なものなのですが、今は便利さを遥かに凌いで混乱を引き起こす雑音になろうとしています。私たちはその雑音の中から本当に聞きたいものを選び取らなければ、雑音の波にさらわれてしまいます。強いては自分の足下を掬われてしまいます。そうなっては生きているように見え実は生きているとはいなくなってしまうのです。精神的には非常に否定的な状態で危険です。

ライアーは心に静けさをもたらすものです。そのことは疑う余地のないことなのですが、さらにそこを突き抜けてもう一つ深いところにたどり着ける音が引き出せるものと私は確信しています。それは情緒的に訴えるのではなく、生きることを引き受ける勇気につながるもののはずです。生の肯定です。生きることを肯定するのです。さてその生ですが、必ず死をもって終わるわけです。それは免れない事実です。とはいっても死は生の否定ではないのです。私たちは死も生と同様肯定すべきなのです。ヒトツガイのものだからです。唯物論が支配する世界では生は謳歌し、死は否定的なものと見なされてしまいますから、延命が医療の勝利となります。そこには死ぬことに恐怖感が付き纏いますが、本当は死も生と同じように肯定すべきものなのです。生と死を同じように肯定できたとき「死して生まれよ」という古代ペルシャから言われている言葉が生きてきます。生きながらにして死に、そして生きながらにしてもう一度生まれ変わるのです。

生きながらにして生まれ変わる。それがどういうことかというと、外から見れば今までと何ら変わりません。ところが、中身はまるで違い、再生による喜びに満ちているのです。淡々と落ち着いた中で静かに喜びを噛み締めているのです。周囲を喜びに変える力を感じているのです。ライアーはそのために何か役立てるように思えてならないのです。

ロゴスは言葉と数字と思考ともしかしたら嘘諸々の混ざったものです

2020年11月23日

ヨハネ福音書の冒頭の、初めに言葉ありき、はじめに言葉があった、というのは正しく訳されているのでしょうか。私は違うと考えています。

ここで言葉と訳されているのはロゴスです。ということは言葉に限ったことではないはずなのです。ロゴスということはギリシャ語で、数学、論理、思考、そして嘘と言った幅広い世界を言い表していて、言葉と訳されては誤解を招いてしまいます。特に現代人は言葉は単に記号的に意味しか読み取りませんから、ロゴスが言葉ということでは、聖書が言いたいことが正しく伝えられていないように思うのです。

では初めに何があったと言えばいいのでしょうか。

広い意味で知性です。人間を知的なものだと言いたいのだと思います。それを神様からもらったということです。ギリシャ語のソフィア、叡智からきているのかもしれません。旧約聖書では林檎を食べたアダムとなります。

 

二千年の間キリスト教社会はロゴス、すなわち知性を膨大なエネルギーを費やし切磋琢磨したと言えます。18世紀にフランスで興った主知主義は知性偏重極まりないものですが、これも典型的なキリスト教文化の落とし子だと私は考えています。

知性は人間の能力の一つに過ぎないということは忘れてはいけないことで、特に傾くと、無駄を省く合理的な世界に向かって進むことになります。人間性が知性に占拠されて他の能力が退けられてしまい、人間存在が痩せ細ってしまったように思えるのです。そして合理的であることを極めるとどうなるのかというと、怠惰という落とし穴に落ちてしまいます。自分でしないで済むように考えるのです。

二千年の合理化の歴史は機械作りに専念したと言えるのですが、要は機械に働かせるのです。自分が楽をするための機械作りです。コンピューターもそうした機械づくりの一旦だと私は考えています。

合理的というのは便利とも言い換えられます。現代社会は便利の追求にイトマがありません。生活はますます便利になってゆくでしょう。

マルクスの思想をここで引き合いに出すと驚かれるかもしれませんが。マルクス思想は合理主義を極めたものです。この思想は宗教をアヘンだとか言って切り捨てていて、キリスト教思想とは別のように振る舞っていますが、私はキリスト教思想の行き着いたところがマルクス思想ではないかと考えています。この思想は超合理的と位置付けてもいいようです。人間を平等に扱っう社会を理想としているてころは実に合理的に考えられていますが、現実には全く逆のことが起こっています。ロゴスに含まれる嘘が頭をもたげ、合理主義の矛盾を垣間見せます。

知性は極まると自己壊滅という道を歩み、せっかくの知的能力をも食い潰してしまうのです。それだけでなく、もしかすると人生そのものをも食い潰してしまうのかもしれません。

知性にブレーキはかけられるのでしょうか。

初めにロゴスありきということで始まった今までの二千年ですが、次の二千年にはロゴスを超えたものが必要です。それが知性にブレーキをかけてくれるものだと考えます。

ロゴスは神様から与えられたものです。神様は次に何を用意してくれているのでしょうか。知性を超えるものと言うのはどんなものなのでしょうか。

時々私の心は白紙になってしまうことがあります。

2020年11月19日

人の心の中というのは、一日に何万という想念が駆け巡るそうです。心は休まずに活動しているのです。私の心も同じように休まず動き回っているはずです。ところが、時々、本当に時々です、自分の心が白紙になってしまったように感じることがあるんです。白紙になりたいではなく(願望ではなく)、なってしまうのです(結果としてです)。子どもの頃からあったようです。思春期あたりで少しずつ意識できるようになって今に至っています。

その状態にいる時はその時まででいたことが、突然できなくなってしまいます。ほとんど一瞬のことなのであまり不自由に思ったことはありません。

イメージとしてしか伝えられないのですが、あえて言えばぼんやりの延長です。不思議なのはその時は諸々の価値が消えてしまうということです。ここで価値というのは一般的な価値のことです。世界に共通の価値です。その価値が支配する世界の住人ではなくなってしまうのです。もしこれが続いたらと考えるとゾッとします。非常に危険です。価値の喪失症候群という言い方があるのかどうかしれませんが、価値を判断できないのでは人間と呼んでいいのかどうか定かではありません。その瞬間私は人間でなくなったと感じることがあります。

幸い私の場合は極めて短い時間です。普段の生活の中でぼんやりすることがありますが、それによく似ています。ボーとしている以上のボーです。白紙というのはボーとしている状態が危ないくらいに煮詰まった感じです。

自分ではまた来たと言う感じだけです。それは津波のようにくるのです。そして一瞬にして価値喪失が起こるのです。

この状態、誤解を覚悟で言うと案外気持ちのいい状態で、よく言えばリラックスしているとも言えるかもしれません。本当に好きなことに没頭しているときにも似ています。好きな音楽に自分が溶けてしまったようなのも似ています。

そこから返ってくる時がまたスリルがあるのです。一瞬真っ白なキャンバスの前に立っているようなもので、全てが新しく始まるように感じます。真っ白と感じるのは返ってくる時で、価値が消える津波は貧血のようなものでくらっとするだけです。

価値が消えて再び戻ってくる時ですが、それは瞬時に起こるのですが、再び戻ってくると言う感じと、全く新しい世界にゆくのだという両方の意識が一緒くたに混ざっています。白紙状態と言ってきましたが実は白痴状態です。

人間ってこうして生まれてくるのかと勝手に想像しています。小さい時のことは覚えていませんからあくまで想像です。

価値の喪失について最後に触れておきます。

色々な価値にどうしても付き纏っている日常からの利害と言う厄介なものがその真っ白になった状態のあとでは和らいでいるのです。昔の価値観が戻ってくる訳ですが、そこから利害関係が抜けるような感じです。

利害関係というのはどうしようもないもので、英語のinterestは関心、興味があるという意味で使われますが、元々は利害関係を示す言葉ですから、私たちは根深く利害関係から関心事を見つけ出して生きているということかもしれません。その利害関係を少しだけ開放してくれるのが真っ白状態なので、私はとても有難いものだと思っています。純粋価値ということを考えることもあります。

 

これからもこの白紙状態(白痴状態)、詳しく観察していこうと思います。