ポジティブということについての雑感

2020年10月27日

物事をいつもポジティブに捉えられたら・・、それを幸せと呼ぶのですよ。こんなすごいことはないでしょうね。それはそのままで悟りの境地と言っていいのかもしれません。いや悟りそのものでしょう。

私がここで言いたいポジティブというのはポジティブに評価するとことではないんです。評価はそのものが既にポジティブからずれている批判的な姿勢だからです。随分ネガティブなのです。

ポジティブに生きていたら評価なんてしなくて済むんです。相対的ではないからです。ポジティブに評価するとか批判しようとするるのは、そもそもネガティブな姿勢の中にいてポジティブに見せかけるわけです。詐欺っぽいのでそんなのやめましょう。もっとダイレクトにポジティブ一本でやってゆきましょう。

 

 

批判的な評価、つまり否定的なものの捉え方は近代のヨーロッパに生まれて以来今日まで、私たちの生き方の基本です。ということは、私たちはポジティブということ、ボジティブに考えるこ、ポジティブに受け止め生きることというのをあまり知らない人間なんだと言えるわけです。

改めてこのことに気づくと、ゾッとするくらい恐ろしいことです。

ネガティブ漬けの世界を生きているのです。聞こえは悪いですが、これが私たちの現実です。私たちはいつも、知らず知らずのうちに、オブラートに包まれていますが、否定的なんです。その中で頑張ってポジティブを装うのです。

そこから抜け出したいものです。

 

そんなことを考えていた去年、六本木の森美術館で葛飾北斎展がありました。その展覧会のおかげで私はひと回り大きく葛飾北斎という芸術家を捉えられる様になりました。

発見の一つは、北斎という人はなんでもした人だったんです。こういうところはつい見落としてしまいがちです。有名な作品だけが一人走りしてしまいますから。でもそれだけを作っていたんではなく、地図や買い物袋の様なものまで作っていたんです。創作を楽しんでいた様子が伝わって来ました。

これって芸術という枠を作者が作ってしまったらできないことです。この枠を作るというのがポジティブに生きるということの間反対なのです。

そもそも三十六枚も(裏と呼ばれるものが他に十枚あるので、全部合わせると四十六枚)富士山を描き続けられるというのはどういうエネルギーからなのかと思うのですが、それがポジティブにつながるものであることは確かです。

芸術的創造はポジティブな力からしか生まれないものです。

私たちの生き方が、心のあり方が芸術に向かえば、自ずとポジティブな流れに組み込まれます。

一時期「自分探し」という言葉があっちこっちで聞かれました。

私には自分を枠に入れる作業をする様に取れるのですが・・・。

そんなことよりもっと、芸術的な生き方をすることで枠を外してポジティブに生きることを目指したらいいのではないか、なんでもいいから創作したらいいのではないか、そんな気がします。

 

今年の秋の講演会の中止のお知らせ

2020年9月5日

皆さまお元気にしていらっしゃいますか。

すでに多くの方から今年の秋はどうなさいますかと問い合わせがあったのですが、9月に瀬戸際対策の新しい見解が発表されると言うことで、それまでお待ちくださいとおへんししてきました。

いま9月に入って、状況は旧態依然、やはり空港で二週間の足止めと言うことに変わりはないようです。

それに日本に入ってからも各地での講演会は、想像以上に負担の大きいものになることが予想されます。

とくにドイツから来たと言うことになると、警戒心は大きくなると思います。

 

それでも可能性はないものかと探してみたのですが、ドイツへの再入国に関しても未だ厳しい状況が続いている上、秋から冬にかけてのウィルスの広がりは楽観できるものではなく、このような中の旅行は持病持ちの私としてはできるなら避けたいと言う気持ちが強くなり、中止を決定いたしました。

私も皆さんとの出会いを楽しみにしていましたから、諸事情のもとの止むを得ない中止とは言え、決定した後はやはり気抜けしてしまい、夏バテが出てしまいました。

 

来年の春、さらに秋にはぜひ実現したいと思っています。状況が改善され、入国が支障なく行くことを願うだけです。また多くの人と語り合える場が持てることを願っています。その時はまたよろしくお願いいたします。

 

皆さんもどうぞウィルスに振り回されずに、元気にお過ごしください。

 

今年の秋の講演会の中止のお知らせでした。

 

仲正雄

死から見える日常。

2020年6月7日

日常について書いて見たいと思います。

この言葉は知っているつもりでいる割には、改めて言葉にしようとすると言葉にできないのです。

いつも通り、毎日、相変わらずと行った程度の意味ですから、哲学している割には難しいものではないのですが、自分の日常ってなんなのかって考えると、自分というものがよくわからないと同じくらいに、わかっていないことにきがつきます。

普通というのによく似ています。

普通と日常には多くの類似性があります。普通というのは横のつながりの中で出てくるものですが、日常というのは時間の流れの中にあるという違いはあっても、どちらも徹頭徹尾主観の中にあるため、よく似て見えるのです。

 

実は私は二つの日常の姿をイメージしています。今日はそのうちの一つを書きます。

普通とか日常というものに出会すのは、自分を変えたいと思った時です。今までの自分とは違う自分になりたいと思うことは人生の中であるのです。一度の人もいれば何度もそう言う状況を体験した人もいるでしょう。

私たちが自分を変えようとする時、二つのことをしなければなりません。一つは「普通」から抜け出すことです。もう一つは「日常」という流れから抜け出すということです。

普通の反対は、風変わりとか異常ですから、自分を変えようとする時に見えてくるこれからの自分はえらくみすぼらしく見えたりするのです。今まで変人と言って、半ば軽蔑していた部類に自分が入ってしまうのです。案外勇気のいることです。他人の目が気になります。もしそこでいつもの自分が懐かしくなったら、ホームシックのようなものでその人は変わることがないのです。それでも他人からすれば別に変わらなくてもいいわけですから、そのまま普通の生活に戻ったとしても誰もないも言わないのです。そのまま普通の生活を続ければいいのです。普通から抜け出すのは覚悟だと思っています。

さて日常の反対はなんでしょう。非日常と言えば間違いではないのでしょうが単なる言葉遊びの様なもので、当たってもいない無難な答えです。

もう一度言います。日常の反対です。いつもと違うことということですがなんと言ったらいいのでしょう。

修行僧たちは滝に打たれたり、絶食したり、千日回峰行のような荒業を通して、日常を振り切りたかったのだと私は考えています。きっと日常を抜け出すというのがとても難しいことなので、精神主義の中では荒業、荒治療が用意されたのではないのでしょうか。日常の反対語を簡単に見つけ出せないのはそこに理由があったのです。しかし荒業以外に日常を断ち切ることはできないのでしょうか。

私の個人的な経験からですが、再生不良性貧血という病気で、このまま進行すれば余命が限られていると宣告され、自分の前に死という真っ暗な塀が立ち塞がり、これ以上進むことができない自分を見せつけられました。35才の時でした。難病で、大病です。

病気というのは、病むということで、言葉遊びと言われてしまいうかもしれませんが「止む」に通じています。今までの自分の生き方を止めろと言うことです。今までの日常が通用しないところに導かれるのです。今までのようには生きてゆけないのですから変わらざるを得ないのです。かつての日常に戻ってしまえば命がないのです。

 

人間もある意味で脱皮をするのだと思っています。成長とか発展とか言われているものです。人間は本能的にそれを持っているという人もいます。そうかもしれません。しかし本能としてその衝動を持っていたとしても、人間の場合、本能に任せるだけでなく、意識が導かなければなりません。精神的な成長は意識的にしか起こらないのです。意識的というのは苦痛をともなうものです。しかし単に苦痛と言うだけでなく、深いところから見るとそれは喜びなのです。生きている中で一番大きな喜びと言っていいかもしれません。

日常というのは樽のタガのようなものです。タガによって樽板がしっかりとまとめられているのです。つまり日常というのは生きていることそのものなのです。まだ日常の反対語を言っていませんでした。「死して生まれよ」と言う言葉を思いうがべています。日常に気がつく、つまり反対語は何かというと、死です。死そのものと言うより市に向かい合うことです。そして日常から抜け出すというのはそこでみた死から再び生に蘇るということなのです。