言葉は唐突に生まれるほど新鮮です

2020年5月3日

今日は取り留めなく、言葉について書いてみます。私が言葉とどう生きているかという側面です。

 

言葉にするというのは結局は決めてかかることに他ならないはずです。定義づけをするというほど大袈裟でなくても、言葉にしたことで、規定し、そこから制約が生まれるのです。

ですから、言葉にするというのは、お節介な、傍迷惑なことだと思うことがあります。

しかし言葉にしたいというのが生来の癖なので、心の中に去来することを言葉にしようとしています。それが私が講演を今まで続けてきた原点です。

 

生きて、感じているから、その感じていることを、そこで考えたことを言葉にしようというのではないのです。何かを伝えようという使命感で言葉にしているのではなくて、言葉にしながら、言葉にするという働きの中で、自分は生きていると手応えを感じているのです。ここのところはわかりにくいかもしれませんが・・。そして言葉になったものを自分で眺めながら、そうなんだ、そうだったんだと感心したりしています。発見があるのです。私がもし使命感のようなもので講演をしていたら三年も続かなかったに違いありません。生きている手応えを感じながら喋っていたので、今まで続けられたのです。もちろんこのままいつまでも続けられると思います。

 

私にとって言葉は言いたいこと、伝えたいことを述べるための道具ではないということです。講演をしているときに、ある言葉がふと思い浮かぶことがあります。話していることとは無関係な言葉が脳裏をよぎるのです。放っておけばいいものかもしれません。普通はほったらかしにしておくのでしょう。そうしておけば、いつの間にか忘れてしまう程度のものなのでしょうが、私にはもったいなくてほったらかしにはできないのです。どうするのかというと、講演の中で、ある程度話が進んでいても、話の腰をおるようにその言葉を口にするのです。

ありがたいことにそれは言葉とは言ってもイメージ的にモヤッとしていますから、話を聞いている人に気づかれないように、カモフラージュできるので、唐突に話の流れを大きく変えるということにはならないので、聞いている人には気づかれていないと思います。しかし話をしている私自身はびっくりしてます。なんでそんなことが今ここで出てくるのかわからないのです。だからと言って話をやめるわけにもゆかず、その言葉によって生まれた新しい目的に向かいます。今までとは違う方向のことがほとんどで、内心はヒヤヒヤ、ドキドキで懸命にやっています。実をいうと、半ば放心状態というのが本心です。放心状態なのですが、この時ほど講演をしていて緊張している時はないのです。汗だくで話をしていると、このスリリングなところを通り越す瞬間があります。ほっとすると同時に快感でもあります。そして私自身でも考えたことのないような新しい地平線が見えてきます。

 

講演会のためにどんなふうに準備するのかというと、テーマについて下調べをするということはしません。一切しないと言ってもいいと思います。いろいろな出会いの場で、話をする機会をもった人の話が講演のための準備といえば準備です。

いろいろな人がいろいろな人生を送っているということに出会う時ほど、生きていることを実感することはありません。そこで使われる言葉がその人の人生そのもののように生きている時、人生という現実が生々しく私の前に繰り広げられます。それは単なる情報というレベルのものではなく、とてもリアルな現実で、それはまさに生きた百科事典なのです。そこで使われている言葉を噛み締めながら味わっているものが私の体に溶け込んで、私の講演の準備となっているのです。

 

おかげさま世界観、あるいは誰でもない誰か。

2020年4月24日

自宅に閉じ込められ、コンピューターの前で過ごす時間も多くなり、普段できない検索に時間を費やしているためか、私のブログにたどりつく人も増えて、見ず知らずの人からとてもラッキーなコメントやメールをいただいて楽しんでいます。

その中で最近いただいたウィーン在住の日本の方からいただいたコメントがとても新鮮で、この機会に改めてコメントをいただいたブログを読み返してみました(ドイツ語の非人称代名詞Es、すなわちIch 。2012.7.23発表のブログです)。

タイトルからわかるようにドイツ語の文法の世界を扱ったものです。文法と聞いただけで顔をそむられる方もいると思います。確かに一般向けではないのですが、文法というのは何も文法の時間と文法のテストのためにあるのでは無いと言う点からすれば、国語や外国語の先生へのメッセージだということです。

文法は人間の生き方、考え方、感じ方に関わるものです。ところがそのことを教える先生方も忘れているようなので、そのことを喚起したくて書いたものでもありました。文法には、民族のある時代の特徴的な生き方のスタイルが窺えるもので、そのスタンスに立てればとても魅力のあるものですと言いたいのです。

 

ヨーロッパは中世から近世に移行するところで大変革がありました。神という概念を盾に猛威をふるった宗教支配からの脱皮と言われるものです。しかし中世のヨーロッパには別の側面もありました。宗教支配は一方通行ではなく、民衆の中に宗教を支えるものがあったのです。

現代の歴史的解釈からすると、暗黒の中世という言い方をされてしまいますが、今日のように、見えているものだけに光が当たっているのだという考えからすると、見えないものは物質を照らす光が当たっていないので、暗黒に写ったと言うことなのでしょう。しかし見えないものを照らす光があるということを中世の人たちは信じていたのです。いやそれどころではなく、確信していた中世の人にとっては、見えない神仏の世界は暗黒ではなく、日本語でよく言われる「おかげさま」の源だったのです。

そのことを暗示するかのような現象が実は古いドイツ語の文法の中にみられます。文法用語では二格、genetivと呼ばれているものです。genetivという言葉は天と繋がるという意味で、天才のことをgeniusと言いますが、点に繋がった人という意味です。

忘れな草(勿忘草とも書きます)という可愛らしい美しい青色の植物の名前は、ドイツ語でVergissmeinnicht、「私のことを忘れないで」と言います。忘れるというのは、今日では「誰かが何かを忘れる」、つまり「私はそんなことをすっかり忘れていた」と言うふうに使います。しかしかつては「私のことを神の加護で覚えていてください」という、少し無理があるかもしれませんが、祈りのこもった訳になると思います。

私流の言い方をしますと、ドイツ語にも「おかげさまで」という感性が存在していたのです。日本語でしか聞かれないような言い方だと思っていましたから、この発見は嬉しい驚きでした。そして私は二格、Genetivをおかげさま格と呼ぶことにしたのです。

この二格という目的格ですが、今日では、ただ一つの例外を残して、使われなくなっています。二格目的をとる動詞は「死んだ人を偲ぶ」というGedenkenだけです。この動詞だけが二格の目的語を取らざるを得ないのです。どうしてかというと、死んだ人は目に見えない訳で、はっきりと目の前で目的対象として扱えないものなのです。つまり二格という目的格は、見えないものを目的対象にしているということなのです。しかもそれが今日の「非人称代名詞」という、謎めいた言い方の中に姿を変えて留めていたのです。

 

よく、マイクロフォンのテストとをする時に「本日は晴天なり」と言います。これは翻訳です。英語の「It’s a fine day」、ドイツ語の「Es ist ein gutes Wetter」が原型です。どちらも主語になっているのは、非人称の代名詞という曲者です。なぜ曲者かと言うと、誰だかわからないからです。主語が誰なのか、なんなのかわからないと言うことです。主語とは行為を起こしている人あるいはもののことですから、この文章は論理的に考えたら成立していない文章です。わからない存在によって本日は晴天なのです。

言語学的、文献的には苦し紛れにでも訳を作らなければなりません。そこから生まれたものですが、正直、奇妙な訳です。なぜなら本日が晴天を作っているわけでは無いからです。晴天を作っているのは誰なのか、それは科学的にも今以って謎です。

 

 

おかげさまという感覚は、日本のお家芸ではなく、ヨーロッパにも昔はあったのです。その「おかげさまで」という言い方が無くなったと言うことは。人々がそのようには考えなくなったと言うことです。しかし昔あった習慣はすぐに消えてなくなるものではありません。ヨーロッパでは、近代以降今日に至るまで、それまで「おかげさまで」と言っていたものをどこかに隠したのです。

結論を言うと、隠したとは言っても隠し切れるものではなく、しかもどこにも持って行けず、唯物的世界観の中で、持て余したのです。しかしおかげさまが消えてなくなったわけではないので、いつかまた別の形で出現する日があるような気がします。それがどのようなものなのかとても楽しみです。

 

主語が特定できない時、つまり行為を引き起こしている人やものが特定できない時、現代語では、苦し紛れから登場した非人称代名詞が使われます。そこには、誰でもない人がいるのです。何物でもない物があるのです。昔は神様だったものです。

この文明の進んだ現代社会にあっても、ヨーロッパ語ではこの幽霊のような存在を主語にして話をしているのです。It’s a fine day、Esist ein gutes Wetterは、なんだかわからないがとりあえずいい天気だ、と言う訳でいいのかもしれません。

中世を暗黒と呼ぶ訳ですが、その暗黒は今でも後ろ髪を引かれるように姿を変えて現代を闊歩していると言うのが現実なのではないか、そんなふうに考えるのです。

アマチュア精神

2020年4月3日

私はアマチュア精神にとても共感しています。

とは言っても、アマチュアがどんなに頑張ってもプロと呼ばれる人たちにかなわない世界はいくつもあります。各種のスポーツの世界、将棋や囲碁の世界、テーラー、大工さん左官職人さん、料理人さんなどです。

アマチュアは趣味の素人芸の域を出ることはなく、その道を極めるためには専門家としてプロの道に進み、プロとして生きてゆく覚悟を決めなければならないということのようです。

確かにこの覚悟は生き方としても一線を画するもので、リスペクトに値します。

このプロの厳しい現実は知っているつもりですが、それでもアマチュア精神にとても郷愁があります。プロや専門家たちにはみられない、おおらかさと健全さがそこには伺えるのです。アマチュアでなければできないこともあるのではないか、アマチュア精神が健全な姿勢として活躍している現場があると信じているのです。

 

その一つは教育なのではないのでしょうか。

教育者は資格と言うことから見れば、みんなプロです。教育の仕事に着くにはそれなりの勉強をして、最終的に資格を取らなければなりません。社会的に見れば、資格をもったプロしかこの仕事にはつけないのです。

しかし精神は別のものです。矛盾した言い方ですが、プロとして生きている人にもアマチュア精神が備わっていないとプロの教育者は資格と言う形式以上のものではなくなってしまうこともあるのです。

専門家として、筋金入りのプロ精神で教育の現場に立ち、子どもたちに向かったとしたら、どうでしょう。さぞ良い教育ができるのではないかと考える人がいるとすれば、それこそが素人の浅はかな思い違いです。私は逆ではないかと考えています。つまりどこまでアマチュア精神を貫けるかにかかっているのだと言いたいのです。

プロの教育者たち、特に本人がプロだと思い込んでいるような教育者たちは危ないとも考えています。プロの教育者たちは教育というより、技術習得のための訓練指導は得意でしょうが、例えば予備校の先生とかです、教育に関してはアマチュア、つまり素人の精神が欠かせないように思えて仕方がないのです。

 

教育というのは人を育てる仕事です。人という無限のものを相手にするということです。人の中に宿る無限を育てることを仕事にする人はどういう人なのでしょうか。そのための勉強はどこでできて、そのための資格は何というのでしょうか。

教育は難しい仕事です。その難しさはプロ、すなわち専門職でありながらアマチュア精神に貫かれていなければならないというところにあるのかもしれません。教育こそがアマチュア精神の見せ所のように思えてならないのです。

 

最後に余計なことを一つ言って終わりにします。

母親になるのに資格は入りません。将来どのように変わるかわかりませんが、今のところはまだ資格なしで母親になれます。

プロの母親というのはどういう母親なのでしょうか。何だか怖い世界がそこにはありそうな気がしてきます。

子育ては、教育という制度の中に組み込まれてしまうとき、音を立てて崩れ去ります。母親であれ保育士であれ、アマチュア精神のもとでしか子育てというのはありえないからなのです。