2020年6月5日
ユーモアがあってくれて本当にありがたいと思います。
しかし今日の緊迫した社会を見渡すとユーモアにもっと活躍してもらいたいので、ユーモアについて少し書いて見ます。
ユーモアというのは人間を通して作られるものなので、ユーモアの活躍できる場を私たちが努力して作らなけばならないということになります。
歴史的には古代ギリシャから知られていたものです。当時は湿り気のようなもののことを表した言葉でしたから、環境にある物として捉えられていたわけですが、今日ユーモアという場合は精神的なものです。物としてのユーモアと精神性に組み込まれたユーモアとではちょっと違います。
何故ユーモアが人間関係にとって欠かせない物なのかはそこにあります。
例えば、人間関係が用を足すだけのものとします。それで社会は十分機能します。もし社会にしろ人間関係にしろそれだけで済むのだとすれば、ユーモアの活躍する場所はありません。むしろ邪魔な物です。中世のキリスト教社会は、笑いは悪魔からのものとみなしていましたから当然ユーモアも認められていなかったはずです。想像するに真面目な人たちの間でユーモアがないのに似ている様です。
戦時下とか独裁政権の元でもユーモーアはご法度です。不真面目と言うレッテルが貼られてしまいます。今日のユーモア欠乏症候群は何かそんな社会情勢を想像させ、楽観できません。
ユーモアとはなんぞやと尋ねられても答えに窮してしまうものですが、言葉にして答えられなくても、健全な社会では人間と人間の間で活躍していることは否めない事実です。
ユーモアはある物ではなく、作るものという意識が大切で、そのためには努力が必要です。しかしユーモアはセンスに属するものとして定着しているところもあって、もともとユーモアのセンスを持った人がいると考えがちです。確かに100メートルを9秒台で走るには肉体的な素質が必要な様に、ユーモアにも基本的な素質を認めるべきだと思うのですが、それは確かだとしても、努力次第でユーモアを持てる様になるのも事実です。
「そのために努力しなさい」と言っていいのかどうか。私は努力よりも気づきの様な気がします。苦行僧の様に努力しても効果はないでしょう。それよりもあることにしっかりと気づくことの方がユーモアが身につきます。
ユーモアの基本は余裕です。そしてその余裕の源は、自分にとらわれないということです。自分の都合だけで生きないと言うことです。自分を評価しすぎている人たちに余裕は見られないものです。この「し過ぎ」がエゴの素です。それは自分に自信があるというのとは違います。自信のある人は余裕があります。自分を評価し過ぎたら、自分に対しての自信など生まれません。そこには相手を低く見る姿勢が見え隠れして、結局は不安の様なものが付き纏い、余裕がなくなってしまいます。この余裕というのは相手がよく見えている時に生まれるもので、相手を自分と同じくらい評価して初めて生まれるものです。
ここにユーモアが生まれるのです。心の余裕を土壌にしてユーモアが花開くということです。ユーモアがわかる人が周囲から好かれ評価されているのはそのためです。
ユーモアがどのくらいあるかが、精神性のバロメーターになったりもします。ユーモアを欠いた社会、ユーモアを封じ込めようとする社会は、精神性のない貧しい社会と見ることができると思います。現代社会は情報に事欠かない社会で、便利になっていますが、情報にはいつもフェイク、偽り、嘘が付き纏います。これはグーテンベルクが印刷術を改革して、大量の出版物を作れる様になった時にすぐに気づいたことでもありました。真実と同じくらい、いやそれよりもすごい勢いで嘘は広がるものなのです。情報社会に生きる私たちは肝に銘じるべきです。
心に余裕があり、そこにユーモアが働いている時、私たちは緩んでいると思います。その緩んだところに直感は降りやすいのです。直感はキリキリと頭で考えても降りてこないもので、ある意味では棚からぼたもちの様なもので、余裕があり、緩んだ時に閃くのものです。考えすぎると判断力が鈍るのは直感が働いていないからだと私は思っています。ユーモアの中で生まれる決断や、判断の方が、私の経験からして、論理的に説明されたものよりも私たちを豊にしてくれるものの様な気がしてならないのです。
2020年5月30日
YouTubeに「徳永兼一郎 最後のコンサート」というのがあります。
N響で長年首席奏者を務めた徳永兼一郎さんが癌で亡くなる四十五日前に行った最後のコンサートの様子を伝える動画です。
もう20年以上前に放映されたものですが、今年の1月に再び聞く機会が与えられました。アップされた方に感謝します。
そこで弾かれた「鳥の歌」は本当に良かった。久しぶりに音楽の奏でる音に深い感銘を覚えました(この曲は32,32から始まります)。ぜひ多くの人に聞いていただきたいと願っています。
もう後がない。癌が進行し、死と向き合っていると誰よりもはっきりと知っていたのは徳永さんご自身だったと思います。その自覚の中で、もっと上手くなりたいという矛盾を丸抱えにして、最後の力を振り絞って彼が知る最高の音をお世話になった人たちに届けたのでした。徳永さんのお人柄がにじみ出ていました。
チェロの音を超えて人間の声が歌うように聞こえました。徳永さんの魂からの声だったと思っています。歌うように弾くのが理想だとチェロを演奏する人ならみんな知っていても、チェロの音を超えて魂の声に到達するのは至難の技です。その技を目の当たりにした演奏だったと思います。
音楽を真から愛する人間にとっては、それをしなければ音楽は技巧の産物で終わってしまうといつも考えているので、この稀有な出会いはとても嬉しいものでした。極論的に言えばそうしなければ音楽はいつまでもエゴの産物で終わってしまいます。
楽器は、いかなる楽器であれ全て無機質なものです。しかし音楽の不思議はその無機質に命を吹き込むことができるということでもあります。楽器にとっての一番の幸せは何かと考えるのですが、私は有機的なものに生まれ変わることだと思っています。これは技術や技巧ではできないことで、意識の進化の中だけで人間の声に限りなく近づくことができるのです。それは魂が響き始める瞬間です。同時に魂が輝く瞬間でもあります。
魂は音に変わることができるのです。一つの奇跡ですが、可能なことです。魂と物質的な響きはどこまで行っても別物ですが、意識という次元のもとでは一つになることが可能で、そこで一体化が実現した時、音は耳で聴くものではなく、心で聞くものに変わってしまいます。アコスティックな音ではなく、聞こえている向こうに魂となった聞こえない音が存在し始めるのです。真の音は聞こえないのです。
徳永さんはその音を最後にお世話になった方達お届けできたのだと思いました。徳永さんの最後にして最高の奉仕だっだと受け取りました。
2020年5月4日
倫理、モラルという言葉に、今まではずいぶん振り回されてた様な気がします。
簡単にいうと、何か良いこと、善なることをしなければならないという、半ば強迫観念のようなものが付き纏っていて、その辺のありようが性分として苦手だったからです。
ところが、最近になってだんだんその桎梏から解き放されているように感じています。
そのきっかけになったのが、倫理とは何か特別なものではなく、物事を持続させるために必要な力だという理解に達したからだと思っています。
ドイツの諺に「嘘は短足」というのがあります。直訳したわけですが、意味を汲んで訳すと、嘘は長くは歩けないとなります。嘘はすぐにバレてしまうので長くは続かないということです。
嘘も方便という言い方もありますが、こちらは大切な処世術です。この意味は嘘をつくことが本意ではなく、嘘を善意に、前に導くために用いているわけで、嘘を肯定しているのではなく、アイロニカルな、あるいはユーモアを含んだ逆説的な表現のはずです。基本的には嘘はよくないと認めた上での含みのある言い回しです。大人の味がします。
さて、話を元に戻すと、倫理は長続きさせる力のことだったのです。ということは嘘の反対です。嘘では物事は長続きしないからです。嘘をゴリ押しして、権力を後ろ盾にプロパガンダとして、嘘でもなりふり構わず百回いえば本当に聞こえてくるなどと言う言い方を私は認めません。
一般的には嘘の反対は正直と言うことになっていますが、この形では深いところには達しないと思います。正直とは本当のことを言うわけですが、この本当のことと言うのが難しいことだからです。知らないうちに権力と結びついてしまうと、本当らしく見えるものが後から見れば嘘だったと言うことにもなりかねない、危なっかしいものなのです。これでは、子どものやっている、嘘・本当ごっこのような遊びの延長です。
ですからここで、嘘の反対を正直者であれということに結びつけると、私が考えている倫理から遠ざかってしまいます。
では倫理はどこにあるのかと言うと、善悪で片付けられないところにあるのです。善悪の彼岸でもなく、善悪以前でもなく、善でもなく悪でもないところにあるのが倫理です.結果として善という事はあっても、善を目指してしまうと、倫理から外れるのです。もちろん善を装った悪などは言語道断です。
物事を続けるために必要なものというと、すぐに制度のようなもので整えることを考えますが、制度と倫理は相当違います。制度化するとそこにはすぐ権力という罠が仕掛けられてしまい、せっかく味のあるものが、人間関係などでヒエラリルキー化してしまい挙げ句の果てに硬直化してつまらないものになってしまうことが多々あります。制度化も必要な要員ですが、それだけではない別のものが必要になってきます。それが働いていないと物事の持続は望めないのです。とは言っても結局は見えない力のようなものですから、それがそこで働いているかどうかということは証明できないのです。という事は今日の思考的習慣からすると、ないものになってしまいます。残念ながらそれが倫理なのです。倫理については、個人の主観に任せられてしまい、何を言ってもいいということにすらなってしまうものなのです。
倫理というのは元々存在している力ではないということにも触れたいと思います。本能ではない、つまりどこかにあるものではないということです。唐突ではが、自由によく似ています。選択の自由はわかりやすく、それが自由だと考えてしまいがたちですが、自由というのも、究極的な言い方をすれば、どこにもないものなのです(いつかこのことにも触れたいと思います)。
倫理というのは社会的に、公共の場にあるものではなく、そしてこれは特に大切なことなのですが、いかなる権力のもとにもなく、個人の意識の持ち方次第で作られるものだということです。つまり倫理は意識の産物で、意識が低ければ低い倫理がそこにあり、意識の高い人のもとには高い倫理があるということです。
意識の高さというのは、自意識からどこまで解放されているのかということだと思っています。自意識から解放された意識は、そもそもは祝福されるべきものなのですが、ある意味では危険な状態に陥ることがあります。それは境界が消えて、自分がわからなくなってしまい、意識だけが無限に広がってゆくこともあるからです。
では倫理のための修練はどんなものなのかということですが、自意識をなくすこと、それが一番の近道のような気がします。