2019年6月24日
アンドレ=セゴビアの演奏する「プラテロと私」について書きたくなりました。
演奏される機会はほとんどなく、唯一録音されたものに頼るしかないのですが、私はセゴビアというギター奏者のことを思い出した時に必ず聞く音楽です。
イタリアの作曲家、カステルヌオーボ=テデスコの作品で、スペインのノーベル賞作家ヒメネスの同名の牧歌的な詩集の中から24の詩を選んで、その詩が朗読される時のBGM的な伴奏のために書かれたものですが作曲者自身がソロで演奏することも念頭に置いているためセゴビアは詩の朗読なしで10曲を録音しています。その中の5曲を録音したものを聞いた時、セゴビアの演奏、とりわけ弾かれた弦に残る震えに興奮を抑えることができませんでした。こんなギター演奏は今まで聞いたことがあっただろうか、セゴビアの演奏ですらこんなにギターらしさ、いやセゴビアらしさが溢れているものはなかったような気がしてレコードがほとんど擦り切れるほど聞いたものでした。他にもセゴビアの素晴らしい演奏はいくつもあります。それなのに私は「プラテロと私」の演奏で聞かれる弦の伸び伸びとしたセコビア流の余韻がギターにふさわしいと言いたいのです。しかも作曲者自身が絶賛しているようにこの曲はセゴビアによって命が吹き込まれました。同時に、私は、この曲はセゴビアが獲得したギターの演奏法の全てを遺憾無く引き出してくれたとも感じています。
セゴビアは弦の余韻、そして何よりも震えを有効に活かして演奏します。この点でセゴビアの後継者と言える人は渡辺範彦さん一人ではないかと思っています。この二人のギターへの思い入れには共通したものがあります。弦を深々と響かせそこから生まれる余韻を活かすことです。ギターがよく響くように改良された今日、弦に軽く触れると音が出るようになり、弦を弛ませることがなくなってしまいました。演奏が楽になり、それが仇となって弦の処理が雑になってしまい、余韻を活かす演奏が消えてしまった中でこの二人の演奏を聴くと、弦と人間の指の間に生み出される無限の可能性に思いをはせることができるのです。
弦楽器の醍醐味は弦の震えです。それはまさに琴線に触れるということと同じなのです。そんな贅沢を多くの人に聞いていただきたいと思い紹介しました。
セゴビアの「プラテロと私」も、渡辺さんのいくつかの演奏もyou tubeで聞くことがでます。
2019年6月17日
福沢諭吉や西周などによって支えられた明治初頭の翻訳文化はSchoolに学校、学ぶところという訳語を与えてしまいました。私は其の罪は相当大きいと思っています。
そもそもschoolという言葉はラテン語のscola、スコラからきています。schoolが学校と訳されてしまったことによって、scolaの持つ「暇潰し」「暇人」という意味を引き裂き、勤勉のような姿が学びに入って来て、学びの本質である「暇」文化が消えてしまったのです。たっぷりした時間と空間が用意されていなければ直感が降りて来ません。そうなっては考えることができないと言う神聖な事実がかえりみられなかったのです。
考えるというのはまったく規制のないところにあるもので、白いキャンバスに絵を描くようなもので、無限の可能性をもつものですから、辻褄を合わせるジグゾウパズル的に初めから目的というのか完成が決められているものではないのです。ただ今日ではこのジグゾウパズル思考が考えることになってしまいました。この移行が実は極めて危険なことだったのです。
ジグゾウパズル的なものが主流になると、考えるということはだんだん退化してしまいます。schoolに学校、学ぶ場所という訳語を当てた頃には、「奔放に考える」ことの育成より「目的のあることを学ぶ」になっていたのでしょう。考えることは退化し、目的のために学ぶことが価値のあるものに変わっていたと思います。近代の西洋文化が入って来て、西洋と一緒に物質文化に寄与することになったのです。日本にあった「考える文化」はわすれさられたのです。
しかし学ぶというのは本来無限の目的のための自主的なものであって、学ぶためにいろいろクリアーしなければならないものがあるので苦労が伴うとはいえ、学びそのものは好きでやることですから楽しいものだといいたいのです。
学びたい人たちが学んだのです。scolaは江戸時代の寺子屋に近いでしょう。読み書きソロバン(算数)という基本を教えることはその人の人生を豊かにしますから大事で多くの農民たちの子どもも寺子屋で学びました。ところがその先は学びたい人だけが学べばよかったわけで、しかも学んだからと言って立身出世に貢献するものではなかったので、昔の中国の、倍率が3000倍と言われる過酷な科挙の試験に合格するための学びでは無かったのです。科挙、今日の試験勉強に共通するのは、学びが合目的な営みでしかないということです。合理主義から生まれている物質中心的な考え方ですから、精神を育む学びとは程遠く。今日の世界を見れば、この合理主義的な学びの犠牲の上に成り立っているとしかいえないのではないか、そんな気がします。
学びの復活を考える時期に来ているのです。今日のschoolを当時のscolaに戻せばいいとは考えません。schoolの次は何かを考えなければならないのです。もう学校のようなものなどいらないという人が出て来てもおかしくないのです。
2019年6月10日
人と話をしている時、上の空で聞いている様に見えるらしいのです。
「仲さん聞いていますか」と念を押されたりするのですがちゃんと聞いています。
ぼんやりでうつろかもしれませんが、話の全体像は把握していて、自分ではさして不思議でもないのですが、「意外と聞いているのですね」と相手の方が驚くのです。
知り合いに、私の講演中に寝ているのがいるのですが、あとで講演の内容について質問すると案外とまともな答えが返ってきます。寝ながらでも聞いている芸は私より一枚上手です。まどろんだ状態で聞いている方が私が言いたいことの全体が、しっかり聞かなければと聞き耳を立て聞くよりよく分かるのだと言います。特に私の話はそうやって寝ながら聞くの一番だとも豪語します。嬉しい限りと言っておきます
この上の空や微睡んで聞くと言うのは、相手にしてみれば決して褒められたものではなく、むしろ失礼な態度でしょうが、話し手の伝えようとしている全体像を察知するには、なかなかの優れもので、個々の意味という細部よりも、話し手が言葉にしようとしている意志、当の本人も気づかずにいる潜在意識と出会えるのです。潜在意識は私が思うに概念的でなく、イメージ的な映像として現れますから、上の空でしか捉えられないものなのかもしれません。
話を聞くときのもう一つの裏技は文章で聞くことです。文章には話しての気づかないものが忍び込んでいて、難しい言葉で聞き手を圧倒している様な、一見むずしそうな話も文章で聞いていると意外とつまらないことを言っていることがバレてしまうことがあるものです。文章は単語の羅列ではないのです。簡単な例でいうと、朝出勤の時に交差点で事故があってそれを人に話そうとする時、考えなしに単語を並べてもその事故の実態は伝わらないものです。「二台の車がぶつかった。交差点。信号無視。一人重症。車は大破」。同じことを言うとき文章にすると雰囲気というか現場が見えきます。「交差点で信号が赤になったのを無視して、すでに交差点に入っていた車に側面衝突して、車は両方とも大破、しかもぶつけられた方の運転手が重症で病院に運ばれた」。空間設定、時間の経過が織り込まれ、そこに事故の原因など説明され、更にいわゆる「テヲニハ」の味付けで話しての感情がくっきりしてきます。
方言を例にとってみます。年配の方たちの中には文章で話せる方がまだ若干見受けられますが、若い世代になると単語は随分知っているけど文章となるとお手上げと言う人が圧倒的です。文章にして話すと言うのは、もちろん書くことはもっとですが、難しいのです。単語が持つ意味が巧みに組み合わさるだけで別の次元に行ってしまうからです。方言で会話ができないと方言が使えるとは言い難いのです。
少し付け足すと、文章はただ単語の意味をつなげ筋を通すだでは用を足しているだけの記号の様なものだと言いたいのです。大切なのは本意の流れを作る作業で、その流れが作られて初めて生きたものになるものです。繰り返しますが、文章というものは実はとてもむずしいものなのです。単語を並べただけの世界から生きた文章の世界に到達するには予想を超えたエネルギーが必要で、そのエネルギーを魂とか感情とか言われているところから得て生きた文章が生まれるのですから、文章の訓練は魂、感情を鍛えることにもなっています。
実は音楽も同じことで、音符を弾いているだけでは音楽が生き物にならないのです。音の連続が音楽になるには、音の繋がりが流れを作る時で、そのための作業が必須で、その流れのない音楽は未熟な音楽というか、まだ音楽になっていないものと言われても仕方がないのです。その流れについては楽譜は何も表記できないという不幸があります。しかしその流れが音楽を作るので、優れた演奏は、行間を読むと同じエネルギーで音と音とを繋いでいるのです。文章にしろ、音楽にしろ流れができると、単語や音符を並べていた時には想像できなかった景色が四方に広がると言うことです。
別の観点から文章を見てみます。
赤ちゃんが言葉を話し始める時の様子を見ていると不思議だらけです。訳のわからない音から始まり次第に単語が使える様になります。実はここで見逃してならないことが起こっています。単語しか使わないのに文章の世界の住人だということです。ここがとても不思議なところで、神秘的です。
幼児の時にだけ起こる一語文章という特殊な文章があります。一語の中に文章的な景色が広がっているのです。しばらくすると二語文章、そして三語文章という具合に複雑な文章の世界に入ってゆきますが、驚くべきは、私たちは幼児の時、文章が持つ景色の広がりを生まれながらにして持っているということです。
ところが二歳半にもなると、大人顔負けの文章力が身に付くわけですが、逆にそれは幼児の「単語ですでに文章」という天上的な世界から、文章を組み立てなければ意味が通じなくなる地上の世界の住人になったということの証なのです。地上の住人となってしまった大人の外国語の習得はそのため苦労が絶えません。同じ様に単語から入りますが、その時の単語は文章の質を持っていません。単語は天上人の持つ羽をもぎ取られてただの単語に過ぎず、単語の数が増えたとしても文章にはならなのです。単語を点に、そして文書を線に例えると、点と線の間にはほとんど超えられない溝の様なものが横たわっているということです。これが繰り返し行っている次元の違いと言うことです。
まとまりを無視していろいろなことを書きました。
話を始めに述べたところに戻します。
要するに言葉の奥、話全体を察することが、柔軟な理解には欠かせないので、ぼーっと、ぼんやりと聞いている時の方が、相手が言わんとしている景色がよく見えているのかもしれないのです。一般には成人すると失われてしまう能力です。言葉尻で理解しようとするのは文献学者さんたちの得意技ですが、重箱の隅を突っついているだけのことなのです。高尚な学問なのに精神性を欠いていると言いたくなります。幼児の時の様に文章と接していたいものです。