コメントの落とし穴

2019年6月8日

コメントはしないで済むならしないに越したことはない、そう言いたいです。コメントというのは非常に内容が薄い上危ないもので、コメントが流行する社会はコメントの持つ危険そのものの蟻地獄のようなものかもしれないのです。ではコメントとはなんなのか、ということです。いろいろな角度から言えますが、まずはコメントというのは理解とは別のものだということです。そこのところを知らないとその蟻地獄からは出られないと思います。

人間というのは理解をし合う存在で、コメントし合う存在ではないのです。

どういうことかというと、コメントは頭の都合の産物、理解は全身全霊から生まれるものということです。私流にいうと理解は命がけでするので上等なもので、コメントというのは頭で整理して机の上だけで済ませてしまっている、何日か経てば紙くず箱に捨てられているかもしれない程度のものなのです。

 

コメントしているということは判断を下してしまったのです。ところがその判断は一方的で「自分としてはそのことをこんな風に分かっている」という姿勢です。つまり上から見下した様な横柄な態度がコメントにはあるのです。

理解も基本的には主観的なものですが、上から見下すのではなく謙遜的で受身的な姿勢がまず問われます。understandという英語の「理解する」という真の意味はそこにあると思います。謙(へりくだ)っているということです。それを前提にして、今度は対象となっているものの中に積極的に入って行こうとしているわけです。

松のことは松に習え、という松尾芭蕉の言葉が思い出されます。

 

主観的な面が両方にはあるのに、相互の行き来がある理解は、一方通行のコメントと混同されてはいけないのです。相手、あるいは物の中に入ってゆこうという姿勢の理解を繰り返すことから人間性が磨かれるのです。しかしコメントを繰り返しても自分の成長には繋がらないのです。

理解は判断を下すこともありますが、判断に至らないこともあります。人生には判断を下せないことで満ちていることを思えば、その方が自然で、何が何でも判断を下したがるコメントの方が不自然なのかもしれません。

コメントというのは相手、対象と距離を取っていて、しかも上から見下して判断しているわけで、自分勝手に整理したものを押し付けます。相手、対象の中に入ってゆくという姿勢はなく、自分の判断を押し付けているだけのことも多く、たいていのコメントはそれを聞いている私たちを幸せにすることはなく、しかも上から見下していますから、礼を逸したもので、できれば避けて通りたいものなのです。

 

なぜそんなコメントが、今の社会で流行し、もてはやされるのか。

コメントが活躍する場所はメディアの分野です。もともとメディアは事件が起こった時、その事件の様子を民衆に「仲介」するために存在しているのですが、ある時「メディアをうまく使えば真実として事件の内容をどの様にでも民衆に伝えられる」ことに気がついたのです。そのことに気づいた人たちがメディアを掌握してしまいました。メディアはことの事実を伝えるのではなく、事実を好きな様に変え、結局はその人たちの都合のいい様に伝えるもので、メディアの権威が増すにつれ、そんなことは朝飯前の当たり前になってしまい、今では民衆をそれで操作できる強力な手段になってしまったのです。洗脳です。メディアに理解は無用の長物なのです。なぜなら民衆に賢くなってもらいたいとはこれっぽっちも思っていない人たちにとって、理解を仲介するなどというのはもってのほかなのですから。民衆が事柄の事実に気がついては困るのです。

 

私は理解に目覚めてほしいと願っています。深く理解すれば、何よりも自分が変わります。今日、自分探しが盛んですが、自分が変わった時自分に出会えるので、探して見つかるものではないというのが私の考えです。

究極の理解は判断しないことです。何を馬鹿なと言われそうですが、なんでもすぐわからなければ役立たずと言われてしまう社会では判断しないなんて愚の骨頂なのでしょうが、判断はできるだけ避けるべきものなのです。判断しないでいるときに自分が強まるので、自分で責任を取れるまで判断しないでおくのは、自立する人間にとって大切な精神修養なのです。

老子の「知るものは語らず」はその意味で、それに続く「語るものは知らず」が饒舌なコメントの世界と言えると思います。

 

何故シューベルトのピアノソナタを聞くのか

2019年5月21日

私はシューベルトのピアノソナタの様に生きたいと思うことがあります。

そうです、まさにシューベルトのピアノソナタの様にです。

私が感じる日常性にこんなに近い音楽は他にないからです。

日常の思いから生まれた、人間の本質が響いている音楽だと感じているのです。

 

私が言いたい日常とは、聖と俗の混ざった時間と空間のことです。そして日常性とはそこに去来する様々な思いのことです。日常というのはあまりに身近すぎるためなのか、とらえにくいものです。そんな中でまず言えるのは「平凡だ」ということです。「特殊な、特別な」というニュワンスから一番遠いものだということです。

平凡な俗っぽさと同じ様に見えるのですが、よく見ると日常空間は意外と複雑で、例えば高貴と低俗、善と悪が複雑に入り乱れているところです。単なる俗と違うのは日常は淡々としているということ、そして屈託のないところです。あるがままという、悪く言えば刹那的なところも特徴です。

その日常には様々な思いが去来しています。極上の聖性から極悪な欲までが日常にはあって、その間を時計の振り子の様に揺れています。こうした日常が日常生活を作り出しているのですが、その日常を一番深く生きているのは外でもない母親でしょう。

私はこうした日常、日常的なあり方が大切だと感じています。普通であることの安心感が日常にはあって、唯一私たちの居場所にふさわしいところです。しかし世の中を見渡すと一番目立たないものが日常で、逆にそれゆえに興味が湧いてきます。

 

こんな日常とシューベルトのピアノ音楽が私の心の中でシンクロします。

私が十代の頃、日本でシューベルトのピアノ曲といえば二流品扱いで、そんなものをコンサートのプログラムに入れる人はほとんどいませんでした。レコード業界もその考えに同調していて、レコード店のシューベルトのコーナーはどの店も閑散としていたものです。たまたまあっても有名な未完成、冬の旅などが2枚か3枚、それでも置いてあればいい方という状況でした。

その当時ウィーンにピアノで留学した日本の人から後日談として聞いた話しを、この文章を書きながら思い出しています。その方は、ある日教授から「シューベルトを弾きましょう」と言われてびっくりして、とっさに「そんな二流品はいやです」と答えたのだそうです。日本の音大ではそういう扱いだったのです。すると教授は逆にびっくりしてその方を見つめ「シューベルトは音楽の本質です」ときっぱりと言われたそうです。そして渋々と練習に入ったのですが、学生時代に植え付けられた先入観を壊すことはできず、ウィーンにいながらもシューベルトはずっと苦手な音楽家だったそうです。その人曰く、ソナタとは言ってもただ流れているだけで、形も無く、何が言いたいのかわからないので、今でも弾く気になれないということの様です。

 

シューベルトのピアノ曲が頻繁に演奏されるきっかけを作ったのはロシアのピアニスト、スビャストラフ・リヒテルです。彼のレコードが話題になったからだと記憶しています。それはあくまで日本のことで、本場のウィーンを始め欧米諸国ではしばしばコンサートで弾かれていた様ですが、それでも他のピアノ曲に比べるとはるかに少なくマイナーなピアノ曲であった様です。

ともあれ、リヒテルの録音は画期的な録音でした。「ゆっくりすぎる」と誰もが感じるテンポはまさに驚異でした。第21番の変ロ長調のピアノソナタは元々が長い曲である上、ゆっくりなテンポでさらに長くなっていて第一楽章だけで24分かかる壮大なものに仕上がっていました。他の演奏者の録音を見ても、当時は20分を超えるものがありませんから、リヒテルの演奏が相当ゆっくりだったことがお分かりいただけると思います。ドストエフスキー、トルストイに通じるロシア気質にしかできない芸当だと私も感じて聞いていました。

しかしそのゆっくり、ゆったりが核心を突いたのか、それ以降シューベルトのピアノソナタを録音するのが流行になるという現象が起こります。著名なピアニストたちは今までそっぽを向いていたシューベルトのピアノソナタをこぞって録音し始めたのです。関を切って流れる水の様にでした。

数多くの録音が出回って色々な演奏が聴ける楽しみが増えたのですが、いつもどこかにずれを感じたり物足りないものを感じながら聞いていました。「この人は本当にシューベルトを弾きたくて弾いているのだろうか。それともレコード会社から依頼されて弾いているのだろうか」などと思うこともあったほどです。モーツァルトの出来損ないの様なものもありました。ショパン崩れの様なものもありました。ベートーヴェンの様にがっちり組み立てて却ってみすぼらしくなっているものもありました。しかしそうした演奏もある意味教訓的で、そうした反面教師的な演奏を聴きながら、却ってシューベルトのピアノソナタをじっくりと味わう機会を楽しんでいました。

 

シューベルトのピアノソナタの難しさは、曲として、作品として、とりあえずは出来上がったものとしてあるわけですが、それらは作品でありながら作品ではないということです。その点を多くの演奏家が理解に苦しんでいる様で、モーツァルトの様にきちん出来上がったものとして弾いたり、ショパンの様に情緒が溢れんばかりに弾いたりしてしまい、シューベルトからかけ離れたつまらないものになってしまうのです。特に学問的な解釈に頼って演奏するとますますシューベルト的で無くなってしまいます。シューベルトのピアノソナタは楽譜を前にしながらも即興の精神で弾くのが理想ではないかと思っています。

シューベルトのピアノソナタというのは誰もの日常生活に去来する思いが、シューベルトによって音楽に転化したものなのかもしれないと思っています。日常生活というありふれた生活空間の中から、彼によって「何か」が音楽になったということです。その何かを引き出せたのがシューベルトの才能でした。多くの音楽のは、芸術と呼ばれる特殊空間の中で営まれる特殊作業と捉えたがります。そうなると特殊な専門家の分野に入ってしまいます。シューベルトのピアノソナタの場合は芸術作品を表現するという姿勢ではたどり着けないのです。日常生活を営む空間に音楽が忍び込んで来るというのがシューベルト的と言えるのです。日常生活と音楽が渾然一体となっている、あるいは日常生活が音楽的に高まるとも言えます。それを音楽芸術だと張り切って特殊空間に持ち込んでもシューベルトのピアノソナタは場違いで、本来のものが聞こえてこないのです。完結した作品でありながら即興という精神で向かうという、シューベルト的矛盾を克服しなければならないのです。ということは演奏に際しては演奏家の日常の音楽意識、日常の中での音楽感性の研磨が問われるものだと言えるのかもしれません。

ダブルトップのギター

2019年5月20日

最近のクラシックギターの世界はどんなだろうと、名前を聞いたことのない、若手のギターリスト達の演奏をYouTubeで聞いてみました。

最初の印象は、女性ギタリストが増えていることと、音がクリアーになっていることでした。

音の変化については、初めは録音技術が進化したのだろうと思って聞いていましたが、何人かの演奏を聞いているうちにそれもありそうだが、それだけでなくもっと本質的なところに変化がある様な気がしてきました。しばらくみたり聞いたりしていると昔とは演奏法が変わったことが気になりはじめたのです。特に弦を弾く時に力を入れていないのに大きな音が、しかも不自然な強調された音が出るのかが不思議で、楽器に変化があったのか、それとも弦の違いかと勘ぐって調べたところ、ダブルトップというギターが作られていることを突き止めたのです。

音がクリアーになる様に演奏する。これはどの楽器にも共通した約束事です。そのためにギターの場合は、指の力の入れ方、角度、さらには爪の形や長さなどにそれぞれの演奏家が工夫をします。最近の若手の、特に女性の演奏家方は驚くほど長い爪で、軽くはじく様に弾いています。ここに気付いた時点でギターの作りそのものに変化があったことを予感して、色々と検索したわけです。

 

ギターの前身といってもいいリュートはルネッサンス、バロックの時代は男性が受け持っていた楽器です。ところが鍵盤楽器の方は意外に思われるかもしれませんが女性が弾いていました。弦をはじくというのは思いのほか力が要るもので、男性の方が指に力があるため撥弦楽器は男性の仕事ということになったのではないかとい推測します。

 

ギターの世界でも女性の進出はここ二十年目覚ましく、昔は紅一点という感じで、幾多のギターリストの中で女性のギター弾きを探すのが難しかったのに、最近の人気ギターリストは女性で占められていると言えるほどの変わりようです。その変化の原因が他でもない、女性の指の力でも十分な音量が作れるギターができたということの様なのです。そのこと自体は嬉しいニュースで、ギター音楽も女性の感性から生まれる音楽が楽しめる様になったということなのですから。

 

さて楽器の方に話を戻しましょう。大きなクリアーな音が出やすい楽器をどの様に見たらいいのかということです。

利点と欠点を含め簡単に要約すると・・

かつての音作りに費やされたエネルギーが、大きな音クリアーな音作りが容易になった分、他のことに使われる様になったということです。テクニックの開発に使える様になったといっていいと思います。しかし音作りというのは楽器演奏にとっては心臓部、命に当たるものだということはがっ気を演奏する者達は知っています。演奏家達は、楽器の種類を問わず懸命に最高の音作りに専念しながら、自分の音と言えるものを作る努力をしたものです。それは音楽性を磨くということと並行して行われたのです。そしてついに音の中にその演奏家の音楽そのものが聞こえてくる様になったと言えます。

ところが音量とクリアー度を楽器の方が引き受けてくれる様になると、演奏する立場から見れば音作りは以前ほどの時間を費すものではなくなり、その分技巧的な方面に時間が費やせることになります。そこで演奏曲目も技巧、テクニックに富んだものが際立ってくる様になるのですが、実はそれらは音楽の中心部から少し外れているため、音楽体験の深さをそこに期待することはできないものなのです。

それに加えて、音作りの曖昧さから生まれるものが目立つ始めます。これはとても残念なことです。コンサートで演奏を聴いている時には大変なテクニックに度肝を抜かれて家路に着いたのに、次の日目覚めて昨日の音楽会のことを思い出しても、なんだったのだろうと、よく覚えていないことがあるのです。優れたテクニックはその場を幻惑させられても、余韻としては薄っぺらなもので残らないものなのです。

 

私は、クリアーで大きな音の出るギターにいささか否定的な立場を取っていますが、大きなクリアーな音のギターを擁護する人たちもいるはずです。特にコンクールに出て演奏効果をアピールするには絶好の楽器です。第一印象の聞き栄えがいいですから、審査員達へのインパクトは強いでしょう。また大きなホールでの演奏には有利ですし合奏する場合にも相手に音が届きやすくなるはずです。といった点はこの楽器が誇っていいところです。しかしダブルトップのギターを使っている演奏家達の演奏をしばらく聞いていると、共通するものが聞こえてきます。演奏が雑なことに気づくのです。一音一音の音もですが和音を引くときに音がバラバラでまとまりを欠いていて、特に六本の弦をいっぺんに引くとき(ギター用語でラスゲアドと言います)、しっとりした演奏ではなく、音量に翻弄されてしまっているのです。それは演奏としてはもちろん音楽として致命的なことです。

ギターを始め撥弦楽器全てに言えることですが、弦を弾く時に込める思いは格別なもので、ときには一音聞いただけで体が震えることがあるほどです。ところが、音がすぐ出てしまうの楽器で演奏すると、音作りへの気合が半減している様で、責任感の伴わない音といってみたくなる様な音になってしまいます。それは命がけの音作り、自分の音に責任をかけた演奏とは一味も二味も違うのです。

その結果どうなるかと言えば、ふくらし粉を入れた様な音はすぐに飽きてしまうのです。