再び性について

2019年1月30日

性は外と内に向かう強い力です。

とはいえ、それがはっきりと私たちを捉えるのは思春期に入ってからで、その時、性はまず激しい欲求を持った性欲として一気に花開きます。バックアップしているのは肉体的な性の分離で、男子の場合、自分にないものを相手の女子が持っていることが気になって仕方なく、女性の美しいヌードポスターを漁ったりして欲望を満たし、女子は男子の気を引くために目立つようなものを着たり派手なものを身につけたりするようになりと、お互いに異性ヘ関心が急速に芽生えます。異性はある日突然と言っていいほどの勢いで暗闇の中から現れ眩しい光を放ち目をくらませます。

男の子にも女の子にも恋心が芽生え好きな人が現れます。あるいは一人の異性をわけもなく好きになってしまい、周囲から冷やかされたりして初恋の喜びに浸ります。わけのわからない恋心が先か具体的な一人が先かは鶏と卵でどちらが先かは人それぞれですが、いずれにしろ肉体的な接触への憧れへと進展し、だんだん露骨になって結ばれることを夢見るまで発展します。初めは手が触れるだけでも電気が走るほどですが、性欲は前に向かって突き進みます。

どんな人を好きになるのかは、蓼食う虫も好き好きですから法則や決まりなどはなく、「お前あんなのが好きなのかよ」「あんなののどこがいいの」と他人から見れば全く理解できないカップルが生まれるのですがそれでいいのです。恋心が純粋なほど周囲から見れば不可解なものです。

思春期の恋愛はこの時期の一番大切な仕事と呼びたいほどです。この時期に受験勉強と称して勉強に明け暮れしていては人間としての成長に大きなダメージがあり、成人してからの人間形成、人格形成に支障をきたす原因となるように思えてなりません。思春期にぜひ好きな人に思いっきり思いを寄せ恋心を燃やしてほしいものです。それは単に性欲に振り回されているのとは違い性欲が精神化したものなのです。

恋に燃え尽きてしまうほどの恋愛から何かを期待しても無駄です。カスも残らないくらい燃えてしまえば跡形もないのです。ところがそれははっきりと個の確立、自分の誕生につながるプロセスで、「誰がなんと言おうと、一人の人を好きになった」という経験は自分に対しての自信を生むものです。相思相愛の恋は珍しいもので、片思いに終わったり、振られることの方が普通ですが、その時の痛みもバネになって次の成長につながるものです。

片思いというのは何も恋愛にだけ起こるものではなく、人生のいろいろな状況で、自分だけの思い込みというのはしょっちゅうあって、こちらの気持ちが相手に届かない時の虚しさは年齢を重ねても辛いものですが、若い時に経験しておく方が立ち直りが早く、その後の人生でも視野を広げてくれるものです。

性欲によって生じる恋心、そこで繰り広げられる恋愛は私たちを内面化する、私たちの内面の世界に気づかせる貴重な経験で、内面化してゆく中で個、自分の誕生のために大きな力となるものだといいたいのです。そこで生まれる個、自分は、特に挫折を伴っている場合は、たくましいもので、孤独になっても孤立することのないしなやかな個、自分の様に思えてなりません。

性はいつの時代もビジネス化され商売のターゲットになったもので、今日も変わりなく商品化されて売り物になっています。にも関わらず性は人間に備わった頼もしい味方なのです。そのことは忘れてはならないことだと思います。人間には性があるから育つものがあるのだということです。それはきっといつの時代にも当てはまる性の魔法からの妙薬によって作り出されている摩訶不思議なもののようです。

 

自然の中の人間、人間の中の自然

2019年1月29日

自然と人間の調和に大きな関心が寄せられるようになって半世紀が経つでしょうか。アメリカのカーソンが農薬によって鳥が激変したことを著した「沈黙の春(1962年出版)」が火付け役となって、静かな運動として始まったものですが、本がベストセラーになり次第に社会運動となり、今日では大きな経済力を背景にした世界規模の大運動に成長しました。

自然と人間はヨーロッパの歴史を見ると決して幸せな間柄ではありませんでした。ローマ時代から自然を開拓して都市を作ることが盛んになります。そしてそれが進歩であり発展とみなされたわけで、次第にヨーロッパ全土に広がってゆきました。都市化と産業の発達に自然は虐げられ続けたヨーロッパでしたが、今日はその反動としての自然保護運動に転化しています。

日本も近代化を進める中で欧米の後を追いかけ、自然を思う存分破壊して発展して来たわけですが、日本に元々ある自然観がそこで全く発言権を持たずに、西洋の近代化の怒涛を指をくわえて見ていたというのが私には不思議なりません。自然と人間は一体のものだなんて、近代化を進める当時のインテリ人たちにしてみれば、幼稚な古代ギリャの自然哲学のように蔑むものだったようで、自然が土俵際まで追い詰められます。しかし公害や環境破壊となって社会的に多くの弊害をもたらし、外国から輸入された自然保護思想の影響で自然が新たな文脈の中で語られる時代が到来しました。

 

日本の古来からの考え方からすると、自然と人間は対立するものでも調和するものでもないのです。調和も違うのですかと聞かれそうですが、欧米的な考え方からは日本的自然観は出てこないものです。

それは紛れもなく一体感です。自然と人間の中にある強烈な共感力が引き合って生まれる一体感です。例えば、天はアマで、海もアマです。広大な海の広がりを目の前にすると、いつしか海と天が一つになってどこからが天でどこまでが海なのかわからなくなってしまいます。単なる自然現象とみればぼんやりと境界線が見えなくなると言えばいいだけですが、天にも海にも命があります。その命が引きあいながら一つになるのです。自然と人間もよく似ていて、両者の命が共感力によって引き合いながら一つになってしまうのです。

欧米の自然観、特に自然環境保護運動に感じる自然観の根底は命の共感ではなく自然現象の観察です。自然の中で起こっていることを科学的に証明することが大切な仕事です。自然を相手取ったものとはいえ科学の一分野なのです。冷静な知的作業です。

日本にあった、実は今も潜在的にはあると思いますが、自然と人間の一体感は自然現象を超えたものです。証明ではなく、ましてや知的作業でもなく、そこには命が一つになることの美しさがあります。それは美的体験です。それは美しいのです。自然は人間が愛おしく、人間は自然に畏敬の念で向かい、その共感の力から生まれるのは存在していることへの感謝です。

美的体験は言葉にするのが難しいものです。神道の「神のことは言挙げせず(神様のことは言葉で説明しない)」という基本姿勢は、自然と人間のこの不思議な関わりのことを言っているのかも知れない、そんな気がします。

 

 

 

 

遊びは元気の源

2019年1月27日

遊び、遊び心、遊びの精神、どれも好きな言葉です。山川静さんによると「遊」という漢字は神と共にいるということを表したものだそうです。

遊びがなかったら心も精神も今のように発展しなかったでしょう。また心にしろ精神にしろ遊びに憧れそこに居場所を見つけているので遊んでいる時にはのびのびしています。

 

私たち日本人は「遊びに来ませんか」と人を誘います。別に何かで遊ぼうと誘っているわけではありません。来てくれるのを楽しみにしているだけのことで、一緒の時間を過ごしながらとりとめのない話をするだけかもしれないのですが、それを遊びと捉えているわけです。

遊びの本当の姿をそこに感じます。人間の理想のコミュニケーションがそこにあるように思えてなりません。今は目的を持った人間関係が主流ですから、何のために付き合うのかがはっきりしていて、それ以外の付き合いは意味がない上、何の役にも立たない無駄なものということになってしまいそうですが、人間を役割から解放して存在から見られるようになれば「遊びに来ませんか」という誘い方が一番自然に、しかもワクワクしたものに見えるようになります。ですから「遊びに来ませんか」は素晴らしいの一言です。

 

何を遊びとするかは人それぞれで、お金をかけた遊びもあればお金が一切かからない遊びもあります。時間のかかるもの、一人で遊ぶこともできますし、沢山の人がいなければできない遊びもあります。しかしそれらの遊びに共通しているものがあるように思えてならないのですがそれは一体何でしょう。

さらに遊べるというのはどういうことを指しているのでしょう。もちろん遊べない人もいます、そういう人はなぜ遊べないのでしょう。遊べるか遊べないか、それは深いところで人間を二に分けている、そんな気がします。

 

遊び、遊ぶということを考えた時、手繰り寄せたくなった言葉は余裕でした。この余裕という言葉は含蓄のある言葉で、物質的に、量的に測るところからは導き出せないもので、例えばお金が沢山あるからお金に余裕ができたというわけではないのです。お金に関して言えばお金には魔力があって、お金はできるともっと欲しくなるもので余裕どころの話ではなくなってしまいますから、お金はまさに質より量の世界ですが、余裕は量より質です。

ある人を見て「心に余裕がない」と感じることがありますが、ほとんどの場合「自分のことで頭がいっぱい」な人です。自分本位というエゴイストとは少し違いますがつまらない人です。エゴイストには腹が立ちますが、余裕のない人にはイライラします。その人と一緒に居るのにその人の心の中に私のいる場所がないからです。そんな人は「遊びに来てください」と誘いたくありません。

 

心がどうなっているのか色々な言い方がありますが、遊んでいる時が一番自然で、そのため呼吸も深くなっています。それが遊びであり、余裕です。分かりにくいかも知れませんが、外と内と行き来する交換が心です。その交換は心そのものであり同時に心の糧となっているのです。心はそこから栄養を摂取し補給しているのです。寝る子は育つように、成人した心は遊ぶと育つ、ということです。

その交換がなければ大変なことになってしまいます。干からびて、しなびて、なえてしまい、死んでしまうでしょう。心が死んだら私たちも死んでしまうのです。

病は気からです。遊んでいる、心に余裕があるというのは元気になるということです。気という不思議な力の源に辿り着くには「遊びに来ませんか」と誘われるのが一番のようです。