自然の中の人間、人間の中の自然

2019年1月29日

自然と人間の調和に大きな関心が寄せられるようになって半世紀が経つでしょうか。アメリカのカーソンが農薬によって鳥が激変したことを著した「沈黙の春(1962年出版)」が火付け役となって、静かな運動として始まったものですが、本がベストセラーになり次第に社会運動となり、今日では大きな経済力を背景にした世界規模の大運動に成長しました。

自然と人間はヨーロッパの歴史を見ると決して幸せな間柄ではありませんでした。ローマ時代から自然を開拓して都市を作ることが盛んになります。そしてそれが進歩であり発展とみなされたわけで、次第にヨーロッパ全土に広がってゆきました。都市化と産業の発達に自然は虐げられ続けたヨーロッパでしたが、今日はその反動としての自然保護運動に転化しています。

日本も近代化を進める中で欧米の後を追いかけ、自然を思う存分破壊して発展して来たわけですが、日本に元々ある自然観がそこで全く発言権を持たずに、西洋の近代化の怒涛を指をくわえて見ていたというのが私には不思議なりません。自然と人間は一体のものだなんて、近代化を進める当時のインテリ人たちにしてみれば、幼稚な古代ギリャの自然哲学のように蔑むものだったようで、自然が土俵際まで追い詰められます。しかし公害や環境破壊となって社会的に多くの弊害をもたらし、外国から輸入された自然保護思想の影響で自然が新たな文脈の中で語られる時代が到来しました。

 

日本の古来からの考え方からすると、自然と人間は対立するものでも調和するものでもないのです。調和も違うのですかと聞かれそうですが、欧米的な考え方からは日本的自然観は出てこないものです。

それは紛れもなく一体感です。自然と人間の中にある強烈な共感力が引き合って生まれる一体感です。例えば、天はアマで、海もアマです。広大な海の広がりを目の前にすると、いつしか海と天が一つになってどこからが天でどこまでが海なのかわからなくなってしまいます。単なる自然現象とみればぼんやりと境界線が見えなくなると言えばいいだけですが、天にも海にも命があります。その命が引きあいながら一つになるのです。自然と人間もよく似ていて、両者の命が共感力によって引き合いながら一つになってしまうのです。

欧米の自然観、特に自然環境保護運動に感じる自然観の根底は命の共感ではなく自然現象の観察です。自然の中で起こっていることを科学的に証明することが大切な仕事です。自然を相手取ったものとはいえ科学の一分野なのです。冷静な知的作業です。

日本にあった、実は今も潜在的にはあると思いますが、自然と人間の一体感は自然現象を超えたものです。証明ではなく、ましてや知的作業でもなく、そこには命が一つになることの美しさがあります。それは美的体験です。それは美しいのです。自然は人間が愛おしく、人間は自然に畏敬の念で向かい、その共感の力から生まれるのは存在していることへの感謝です。

美的体験は言葉にするのが難しいものです。神道の「神のことは言挙げせず(神様のことは言葉で説明しない)」という基本姿勢は、自然と人間のこの不思議な関わりのことを言っているのかも知れない、そんな気がします。

 

 

 

 

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