遊びは元気の源

2019年1月27日

遊び、遊び心、遊びの精神、どれも好きな言葉です。山川静さんによると「遊」という漢字は神と共にいるということを表したものだそうです。

遊びがなかったら心も精神も今のように発展しなかったでしょう。また心にしろ精神にしろ遊びに憧れそこに居場所を見つけているので遊んでいる時にはのびのびしています。

 

私たち日本人は「遊びに来ませんか」と人を誘います。別に何かで遊ぼうと誘っているわけではありません。来てくれるのを楽しみにしているだけのことで、一緒の時間を過ごしながらとりとめのない話をするだけかもしれないのですが、それを遊びと捉えているわけです。

遊びの本当の姿をそこに感じます。人間の理想のコミュニケーションがそこにあるように思えてなりません。今は目的を持った人間関係が主流ですから、何のために付き合うのかがはっきりしていて、それ以外の付き合いは意味がない上、何の役にも立たない無駄なものということになってしまいそうですが、人間を役割から解放して存在から見られるようになれば「遊びに来ませんか」という誘い方が一番自然に、しかもワクワクしたものに見えるようになります。ですから「遊びに来ませんか」は素晴らしいの一言です。

 

何を遊びとするかは人それぞれで、お金をかけた遊びもあればお金が一切かからない遊びもあります。時間のかかるもの、一人で遊ぶこともできますし、沢山の人がいなければできない遊びもあります。しかしそれらの遊びに共通しているものがあるように思えてならないのですがそれは一体何でしょう。

さらに遊べるというのはどういうことを指しているのでしょう。もちろん遊べない人もいます、そういう人はなぜ遊べないのでしょう。遊べるか遊べないか、それは深いところで人間を二に分けている、そんな気がします。

 

遊び、遊ぶということを考えた時、手繰り寄せたくなった言葉は余裕でした。この余裕という言葉は含蓄のある言葉で、物質的に、量的に測るところからは導き出せないもので、例えばお金が沢山あるからお金に余裕ができたというわけではないのです。お金に関して言えばお金には魔力があって、お金はできるともっと欲しくなるもので余裕どころの話ではなくなってしまいますから、お金はまさに質より量の世界ですが、余裕は量より質です。

ある人を見て「心に余裕がない」と感じることがありますが、ほとんどの場合「自分のことで頭がいっぱい」な人です。自分本位というエゴイストとは少し違いますがつまらない人です。エゴイストには腹が立ちますが、余裕のない人にはイライラします。その人と一緒に居るのにその人の心の中に私のいる場所がないからです。そんな人は「遊びに来てください」と誘いたくありません。

 

心がどうなっているのか色々な言い方がありますが、遊んでいる時が一番自然で、そのため呼吸も深くなっています。それが遊びであり、余裕です。分かりにくいかも知れませんが、外と内と行き来する交換が心です。その交換は心そのものであり同時に心の糧となっているのです。心はそこから栄養を摂取し補給しているのです。寝る子は育つように、成人した心は遊ぶと育つ、ということです。

その交換がなければ大変なことになってしまいます。干からびて、しなびて、なえてしまい、死んでしまうでしょう。心が死んだら私たちも死んでしまうのです。

病は気からです。遊んでいる、心に余裕があるというのは元気になるということです。気という不思議な力の源に辿り着くには「遊びに来ませんか」と誘われるのが一番のようです。

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