芸術のすすめ。真実とは、無心とは。

2018年3月9日

芸術ってなんとなく誘われてしまう言葉です。何に誘われるのかは個人差があるものですが、それが何なのかわかっていないから惹かれるというのは共通しているようです。いやいや言葉にし難いものです。

音楽や詩や劇や絵画や彫刻や建築などを総称して芸術と呼んでいますが、そんな辞書のような芸術には誘い込む力は感じられません。生きた芸術は全然違って、魔力があります。それに惹きつけられるのです。

綺麗とか美しいとかではなく、ましてや特殊な技術があるということでもなく、人を惹きつけて止まない不思議な力はなんなのでしょう。きわめて単純なものに芸術を感じることだってあるのです。幻術のように人をごまかしているのではなく、ふとした瞬間に真理を垣間見せてくれる力なのでしょう。

そうです、芸術というのは真実によく似ています。

 

芸術が表現されるために色々な技術が用意されています。それらは時間をかけて習得出来るものですが、芸術は習得できないのですからふしぎです。その意味では永遠に手付かずかもしれません。

やっぱり真実みたいです。

何年もかけた絵が徒労に終わることもあれば、気分が向いた時にさらっと描いた絵が、思いがけなく見る人の心に深く語りかけることもあります。後者は芸術の域に近いのではないかと思います。と言うことは芸術は無心とも深く結びついたものの様です。

芸術は評価されるのを待っています。制作者が自分でこれは芸術ですと人前に出したら驕りの領域に入ってしまい、嫌われてしまいます。自分ではどうすることも出来ないもの、それが芸術のようです。

 

最後にもう一つ。

芸術も、真実も、無心も気づかされるものなので、受身的とも言えますが、消極的ではありません。人事を尽くして天命を待つという諺が思い浮かびます。

気がつかないところにある事がおおいです。円の中心のようなものとも言えます。有ることはわかっているのに、感覚的には捉えられない存在です。真実は知ろうとしても肩透かしを食いますし、見たいと思っても見られないものです。芸術も芸術を生み出すのだと力むと逃げてしまいます。無心にやっていると思い込んでいるだけの事って以外と多いのではないかと思います。

 

 

 

 

 

レオ・スレザークの語るような歌

2018年2月9日

レオ・スレザークの歌は別格です。ぜひ多くの方に聞いていただきたいと願っています。

戦前にヨーロッパのオペラ界で活躍したテナーですが、ドイツ歌曲の歌い手としても名声を博しました。今日では、知る人ぞ知るという好事家の対象になったと言うのならまだしも、この歌い手の歌い方に昨今の音楽の常識が焦点を合せられなくなってしまって名前すら出てこないという状態で、忘れられた歌い手です。

私がこの歌い手を紹介するのは、彼のように歌う歌い手、歌える歌い手が現在どこを見渡してもいないという理由からです。なんだそんなことかと言われ片付けられてしまうことかもしれませんが、私にとってこれは大問題なのです。

本当に大問題なのです。それは何もドイツの歌い手の世界だけの問題ではないと考えているからです。そんな狭い了見でものを見ているのではありません。今日の音楽、特に歌は発生の面で危機に面していて、そこに一石を投じることがスレザークの歌にはあると考えているので、スレザークを忘れた音楽界に物申し、音楽の根本に新たな光を当てたいと考えるのです。音楽という芸術のあり方にとっても、とても健全なことだと考えています。ひいては芸術全般にもそして人生観を変えるにも良い刺激になるに違いありません。

 

先日の声について述べたブログ「声のすすめ」の最後のところで、「吸う声」について述べておきました。「吸う声」というのは、力んだ無駄な力を抜いた所で本来の力が一番発揮できるのだということの、私流の言い方です。

スレザークはその「吸う声」で歌った数少ない歌い手です。ですから最近のYouTubeにアップされたものを通してその声に接することができる利点を活用し、多くの人に「吸う声」を体験してもらえたらと願ってこの文章をしたためています。最後に彼の声の聞けるYouTubeを紹介しておきますのでぜひ聞いてみて下さい。

 

スレザークの「吸う声」はどう言うものかと言うと、こればかりは実際に聞いていただくのが一番なのですが、非常に滑らかです。しかも聞き手を包み込むような広がりがあり、歌詞の言葉がとても聞きやすく、言葉の美しさにうっとりさせられます。ただ時々、これが私の苦手としているところでもあるのですが、オペラを歌った歌い手たちの悪い癖で張り上げてしまいます。悲しいかなオペラを歌った人が身につけてしまう悪い癖ですが、この部分を抜けば、彼の歌は静かで、しっとりしていて、繰り返し聞いても疲れない歌だといえます。この声で歌われた歌詞の言葉はには力があり、語りかけられているようで、安心して歌に身を預けて聞いていられるのがいつも不思議です。

 

昨今のオペラ歌手たちの張り上げる声はどうして作られるのかと言うと、彼らの発声法は声の響きを求めているためです。よく響く声と言う意味です。そのため音響効果に囚われて、言葉の響きを置き去りにし、さらに声を楽器として扱うため、言葉のための声から遠ざかって、響のための声になってしまい、多くの方が経験しておられる様に、言葉が歌われているのに何を歌っているのか分からないと言う悲劇が生まれます。

スレザークの歌う歌の場合はそんなことはなく、言葉がはっきりと聞こえます。しかも語られているように聞こえるのです。声が音響のための道具ではなく、言葉のための道具だからです。そして聞いている側にとっては、ほかの歌い手に歌われた同じ歌詞と比べてみるとよくわかるのですが、スレザークの歌には言葉に説得力がありこちらに伝わって来るのです。

音楽学校の歌指導の中には今日でも「語るように歌う」という意識はあります。誰もがそのことの重要性を頭で知識として理解しているはずなのですが、実際の声作りの段になると、音響効果が優先され、楽器化してしまい、現実には張り上げるように指導されてしまうのです。しかもそれが今日の音楽教育では歌い手の声として高く評価されているので、学生たちは当然そちらを目指します。

ということは、スレザークのように歌ったら、今日の音大は卒業できないということでもあるのです。スレザークが好きになって、あのように歌いたいと思ったら指導の先生方に相手にされませんから音大をやめざるをえないわけです。今日スレザークのように歌える歌い手が世界中探してもいないのはそのためです。

ここで補足しなければならないことがあります。

実を言うと、今日一人もいないと言いましたが、彼が活躍した当時も彼のように歌える歌手は数少なかったのです。ここでは歌の神様とまで言われた、ロシアのバス、シャリアピンを「吸う声の持ち主」の一人として挙げるにとどめますが、「吸う声」は当時ですら本当にわずかだったのです。と言うことは、西洋の歌の世界ではもう長いこと「吸う声で歌う」ということは忘れられてしまっていたと言っていいのかもしれません。時たま「吸う声」を持って生まれた人が「吸う声」歌えたと言うことのようです。スレザークは生まれながらにしてその声に恵まれていたのでしょう。彼の歌は歌なのにまるで語りかけられているように聞こえてグイクイと引き込まれてしまいます。

 

 

「吸う声」。これは何も歌だけの事ではなく、私たちが普段話をするときにも考えていい事のはずです。「吸う声」で話せば、聞き手を引き込むことができるのです。今日の様に吐く息だけで言葉にしてしまうと、声は硬いものになって、相手にぶつかってしまいます。言葉は聞きづらくなりそのため相手がバリアを張って警戒するので、言葉が相手に伝わらなくなってしまいます。今日の声楽家たちの声も基本的には吐く息からの声で、そのため言葉が聞き取りにくいことを思い出していただけると、私が言いたい事が多少でもご理解いただけるのではないかと思います。「吸う声」は聞いてもらえる声の事でもあります。

 

YouTubeで聞けるスレザークの歌を最後に紹介します。

Leo Slezak sings ‘Nacht und Träume’ (Schubert)

Leo Slezak sings ‘Mondnacht’ (Schumann)

R.Strauss – Morgen! – Leo Slezak

これだけ見れば関連のところにスレザークのほかの歌もありますから、いろいろと聞いてみて下さい。

神様の話、自由の話、実は後藤淳子さんから学んだこと

2018年2月7日

「神」を辞書で引くと取り敢えずは出てきます。ところが、それで分かったかというと分からないままです。なにが分かって何が分からないのかというと、一般に神と言う言葉がどう使われているのか、そんな様子は見えて来ます。しかし神とは何かという、本当に知りたいことは素通りです。

しかし辞書に責任があるのではなく、誰に聞いても、何処に居るのか、ましてや居るのか居ないのかすら分からないわけですから仕方がありません。それなのに名前だけはしっかりあるのが神ですから、なんとも珍しい存在です。

 

「信じている人には居て、信じていない人には居ない」主観的なものということです。信じるから居るのです。信仰の向こうに見えてくるものです。信仰があるところに向こうからやってくるものです。ですから信仰のないところに神は居ないのですが、あたかも客観的な存在として、信仰以前に神を定めてしまう考え方もあったりして驚く事があります。

客観的なものとしての神を持ち出されるとハラハラしてしまいます。神はいるのだと何の前提もなく持ち出すわけです。そうなった時、神は誰彼の区別なく万人にとって絶対的なものとして扱われて来ますから、暴力的な押し付けになって、押し付けられたら逃げ場がなくなってしまい、精神的に窒息します。

 

 

神と似ているものがあります。自由について考える時です。

自由も主観的なもので、それぞれの人が自分の自由を持つというのか、感じるのです。ここには自由があります、などと言っている人を時折見かけますが、首を傾げてしまいます。万人にとっての自由なんてあるものではないはずですから、そこでいう自由とは何なのでしょう。

誰かが勝手に決めた自由のはずです。それを他人に押し付けるのでから、自由とは名ばかりの暴力でしょう。コレが自由で、コウすれば自由になりますということで、強制ですから自由とは全く逆のものです。

自由とは主観的なものですが、一つ条件があります。それはまず自分が生きる上で不自由を感じるところを持たなければならないということです。ここで不自由と言っているものは分かりにくいかもしれませんが、不自由と自由の関係は、信仰の向こうに神が見えて来るようなものです。自分の中に不自由を感じること。しかし一体いつ不自由を感じるのかと言うのは、分かっているようで誤解していることが多いようです。

不平不満が不自由と思っている人がいますが、それは要求が満たされていないことへの不満に過ぎないので、不自由とはいえ軽傷です。驚くなかれ、満たされていることに不自由を感じることだってあるのです。ですから、満たされていないことと不自由とは似ていても論じる土俵が全く違うのです。

では不自由はどんな時に感じるのでしょう。自分が自分に対して不満を感じる時、自分が自分に飽き足らない時だと私は思っています。普通の不平不満とは違って、外に向かって不満をぶちまけるのではなく、自分自身に向かって不平不満を言う時、不自由が浮かび上がって来ます。そこで私たちは不自由と対峙することになります。向かい合うのです。自分の分身と呼んでいいものが現れ、それと向かい合うのです。

この分身と戦うこと、自分自身に向かって不平不満をぶつけることが自由への道であって、自由とは形のあるものではなくいつもプロセスとしてしか現れないものなのです。ですから、ここには自由がありますと言う言い方ほど自由から遠いいものはないと言うことになるのです。

自分自身への不満、それは自分という枠に他ならないのです。自分とはこれだけの存在なんだと呆れるわけです。

失望です。自分自身に失望する自分、それを支えてくれるものは何でしょう。

自分自身に失望しきった自分をも何かが支えてくれていると感じられる時、その支えてくれているものを何と呼んだらいいのでしょう。

それは信仰です。そしてその信仰が筋金入りであれば向こうから神が現れるのです。

その神は具体的で立派な現実です。

ただし私自身にとってということなのです。

 

 

後藤淳子さんが一昨年の八月、脳失血で倒られその後一年三ヶ月余りを意識不明の状態でおられた間、私は何度か折を見てお見舞いに伺いました。言葉ではない対話をしながら、共に歩んだ二十五年を何度も振り返りました。後藤淳子さんは私を見つめ、手を握りしめて何かを訴えておられました。その度に後藤淳子さんからのメッセージ「信仰」という言葉が私の心の中をよぎってゆきました。後藤淳子さんの生き様は正に「信仰」に貫かれていました。その信仰の向こうに何をご覧になられておられたのか、今となっては知る由もありません。でも哲学的に語ることは決してしなかった後藤淳子さんが、その時は無言の中で哲学的に語られているような気がしてなりませんでした。

ご冥福をお祈りいたします                                  合掌